六地蔵と石丸神社と謀略〔4090〕2014/06/27
2014年6月27日(金)曇り
昨日は、大切なお客様をご案内する一日でした。で、夕食は、土佐あかうし。これほど貴重なものが食べれる機会というのも、なかなか無い、そんな夕食でした。今、味の評価が沸騰し、人気急上昇の土佐あかうしですが、不遇の時期が長かった為に頭数が減り、こじゃんと貴重なお肉になっちょります。そして、昨夜食べたのは、その貴重な土佐あかうしの内臓。すべての部位。おいしゅうございました。また、貴重な貴重な雌のサーロインもありまして、堪能致しました。今、増頭するために雌の個体はなかなか出荷にまわっていないので、ホントに貴重。おいしいので、また、頭数が増えて活性化していくことを期待しましょう。
ところで、先日、長宗我部元親さんが斎藤利三さんに宛てた書状が発見され、話題となっちょります。これは、もう、ビックリの資料。本能寺の変の真相究明に大きな影響を与える大発見ですね。
ご承知の通り、信長は、当初、元親の四国切り取り自由を認めちょりました。しかし、自分の国家統一戦略の中で急に方針転換し、土佐一国と阿波の一部のみだけを認めるので、その他は信長に差し出すように、と言うてきます。元親は、それに承知せず、信長は四国に攻め入ることにした、という通説。
しかし今回の発見で、元親は、戦国の世を生き残って行く術として、信長の命令を承諾しておった、という事実が明らかになった訳です。信長の言う通りにし、恭順の姿勢を見せたのでありました。
しかし、信長は、四国へ攻め入るのをやめませんでした。これは話が違う。
信長と元親の間に入っていたのが明智光秀。書状を出した斎藤利三さんと同じ一族、明智光秀。光秀は、大いに面目を潰された訳です。信長の出す条件を伝え、その条件を元親がのんだにも関わらず、軍勢を引かずに送り込む。そんな信長に顔を潰された光秀は、四国出兵直前に、本能寺で信長を討った、というストーリーが、俄然信憑性を帯びて来た訳です。
それにしても、武士の世界は信義を重んじるとかなんとか言いますが、実に、実利的で謀略とだまし討ちの世界。悲しいくらい。
その後、元親は秀吉に屈して土佐一国を安堵され、信親を失い、盛親の代へ。そして関ヶ原。
ここは今朝の浦戸。土佐市へお客様をご案内する前に、立ち寄りました。六地蔵と一領具足の碑が立つ、海岸。写真は六地蔵で、その向こうに祠が見えます。石丸神社さん。
その石丸神社さんの横の説明板の文章を転載します。
以下転載
石丸神社
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦後、遠州(静岡県)掛川城主山内一豊土佐の国主となる。
長宗我部の浦戸城(龍馬館建設地)明け渡しに際し、「旧主のためにせめて一郡でも」と主張し抵抗したが悉く打ちとられ、十二月五日浦戸城は接収された。この抵抗した一領具足の二百七十三人の首は塩漬けにして十二月晦日、大坂の井伊直政のもとへ送られた。その胴体を埋葬し後に石丸塚として祀られたところ(西北20m)に地元の有志(五名)によって建立された小祠が「石丸神社」である。
昭和三十三年桂浜観光道路建設の際、現在地に移された。
以上転載
この、山内氏の土佐入国の際、相撲大会と称して長宗我部の実力のある遺臣を集め、一網打尽にだまし討った悲劇も、忘れてはなりません。
実に、戦国の世とは、そんな悲しい時代。昭和になり、日中戦争へとなだれ込むきっかけになった満州事変なども、陸軍の謀略の極み。自作自演の、敵を貶める謀略。そんな汚い謀略の歴史も、将来への戒めとして、記憶に留めておかんといけません。知らんぷりを決め込むことは許されない。そんなことを考えさせられる、浦戸の風景。