大橋通りの老舗〔4084〕2014/06/21
2014年6月21日(土)曇りのち雨
そんな訳で高知。昨日、東京、小田原で仕事を済ませ、最終の飛行機に乗ってモンて来ました。なんか、久々の高知のような気がします。水曜日の朝、汽車に乗って出てから昨日の夜まで。水曜日は雨が降ったりやんだりやったもんで、大きいビニール傘を持って出かけました。実際に使用したのは、路面電車で高知駅へ行くのに、与力町から大橋通電停まで歩いたときだけ。後はまったく出番もなく、3日間、ずうっと持ち歩くことになった傘。昨日なんぞは真っ晴れですきんね。マギると言うたち。まっこと。
で、実は、もう既に高知を出て。車で国道33号線を松山方面に向かいよります。まあ、自分で運転しゆう訳ではありませんが。本日の目的地は大分。佐田岬からの国道フェリーを利用して、またまた大分に向かいよります。今週はずうっと移動しゆう気がしますな。
写真は今朝の大橋通り。電車通り側の入口から撮影してみました。右手には老舗の和菓子屋さん、中納言さん。
よく、このにっこりでご紹介する、明治18年頃に河田小龍さんが描いた高知市外全図という地図があります。今、手元に持って来ちゃあしませんが、記憶によりますれば、その市街図には、「老舗」という項目があり、何軒かの、明治10年代当時にすでに老舗であったお店の表示があります。下町では菜園場の釣針屋さん、丹吉針だけ。そして市内中心部では、この場所に「モチヤ」と描かれた老舗があったと記憶します。
それを見ちょったので、こないだ、この中納言さんの安藤くんにその話をしてみました。ところが、安藤家がここでお餅屋さんを始めたのは明治20年とのこと。
謎だ。
明治10年代に、すでに老舗のお餅屋さん。
どうやら、大西さんという方が、それ以前にお餅屋さんをやりよったがにかありません。現在の中納言さんのご創業は、明治20年ということになるがやそうです。
ここは、藩政期には武家屋敷街。しかも、お城に近いので、かなり階級の高い武士の広壮なお屋敷が並んだエリア。
この左手は家老級のお家柄の孕石さんち。その向こうは南会所で、幕末、武市半平太も投獄され、自刃した場所。その向こうは筆頭家老深尾家の屋敷で、幕末には深尾弘人(ひろめ)さんが住んだ場所。
この中納言さんの場所、弘化年間には渡辺隼人さんという方が住んじょります。
さて。明治10年代の老舗の餅屋さん。
まさか、この武家屋敷の真ん中で餅屋さんをやりよった訳でもないと思います。元々はどこにあったお餅屋さんなのでありましょうか。今度、安藤くんに詳しゅう尋ねてみたいと思いよります。
大正10年の高知市街図を見てみますと、この中納言さんの北側には土佐教会。そう。その頃は、ここは商店街でもなんでもありませんでした。当時の繁華街は種崎町界隈で、帯屋町は病院が多く、ここにも教会や学校など。大橋通りが高知市の台所と呼ばれるような食品中心の商店街になったのは戦後のこと。全盛期は、昭和40年代頃でしょうか。
そう。その頃、毎朝ここを通って通学した私。
このアーケードを抜けた北側の東には追手前小学校がありました。
与力町で生まれ育った小生は、毎日、ここを通って小学校に通いました。夕方ともなれば買い物客がひしめき合い、売り子さんの声が響き、凄まじいまでの活気に溢れちょった大橋通りは、私の、毎日の遊び場でした。