杉、魚梁瀬杉、平教盛〔4039〕2014/05/07
2014年5月7日(水)快晴!
良いお天気。空気が透き通り、心地良い朝。
ここは、今朝、4時半の野市、上岡八幡宮さん境内。白んでくるがが早うなりました。4時半には、もう、東の空が明るうになり始めちょります。もう、季節は夏。
ここ上岡八幡宮さんは、上岡山の森に鎮座ましますが、参道は開けちょります。参道入り口の鳥居のところに屹立する杉の木と、クロガネモチ。特徴的な取り合わせ。
杉と言えば、高知県の木は魚梁瀬杉。土佐では、白髪山の檜と魚梁瀬の杉が藩政期から有名ですが、土佐の山の様な暖温帯土部で、杉が濃密に生育することは異例にかありません。その為、かなりの昔から、ヒトの手が入っちょったがやないか、との説もあるそうです。
魚梁瀬杉の魚梁瀬は、馬路村の奥にあります。こじゃんと深い山。何故、魚梁瀬と呼ぶようになったか、という由来は、これまた平家落人伝説に遡るのでありますね。
門脇中納言。
平清盛の異母弟、平教盛は、その壮麗な屋敷が六波羅の門の脇にあったので、門脇殿とか門脇中納言とか呼ばれました。平家全盛時代には、かなりの権力を持っちょった門脇中納言。
源平合戦のクライマックス、壇ノ浦の戦いは寿永四年(1185年)3月。安徳天皇を始め、平家一門はことごとく壇ノ浦の海に入水した、ということになっちょります。
しかし。
土佐では、そうなっちょりません。
碇に身体を縛り付け、浮かび上がらんようにして海に飛び込んだ、とされる平教盛ですが、実は、そう見せかけちょいて脱出した、という話です。で、同じく入水した安徳天皇を救い出して脱出、四国に渡り、あの険しい山々を越えて土佐へとやって来た、という伝説。
その、門脇中納言平教盛に関する落人伝説は、各所にあります。
有名なのは御在所山。
香長平野から、物部川の上流方面を眺めると、乳房のような形をした山が見えます。御在所山(標高1079m)。落ち延びて来た安徳天皇と、それに仕える宰相の平教盛。越智の横倉山へ逃げる前、その御在所山に、しばらく行在所を設けちょったという訳です。しかし、そこで、宰相たる平教盛が亡くなったので、御在所山にそのお墓をつくって葬った、という話。
そしてもう一つ、平教盛伝説。
教盛は、現在の魚梁瀬の深い深い山中へと落ちてきて、宝蔵山に住んだとか。で、川魚を獲る為にヤナを仕掛けたところ、それが川下に流されてしまいました。下流で、それを見つけたヒトが、これはおかしい、誰かが上流で生活しゆうにかあらん、と不審に思い、調べた所、平家の落人、平教盛を発見した、という伝説。で、ヤナが流れて来た瀬なのでヤナセ、魚梁瀬。
しかし、漫画家のやなせたかしさんは、魚梁瀬とは関係ないようです。
やなせたかしさんは柳瀬嵩さん。お父さんの出身地が、香美郡在所村で、平家の末裔とされる、と、ウィキペディアに書いちょります。在所で、平家の末裔。これは、上の、安徳天皇が御在所山に住み、門脇中納言平教盛が宰相として仕えた、という話とリンクしますな。
在所村は、アンパンマンミュージアムからもうちょっと物部川を遡った界隈。そこからもっと遡ると、永瀬ダムがあります。そのダム湖の底に、かつて、柳瀬という村があり、中世から柳瀬氏という名主が支配しちょったという話もあります。う〜ん、錯綜する。
魚梁瀬が平教盛さんの伝説であれば、在所も、平教盛伝説の地で、在所の柳瀬家は平家の末裔とされ、そのちょっと上流には名主柳瀬家が支配する柳瀬村があった。
あ〜、ややこしい。魚梁瀬は奈半利川の上流で、物部川水系とは全然別。しかし、地図をよく見てみますと、教盛が住んだ宝蔵山から縦走していくと、四つ足峠へ出ます。つまり、物部川水系の上流域。上流域は、意外と近かったかも知れんですな。
どちらにしても、この山深い界隈。平家の落人がたくさん流れ込んで来たのは間違いないでしょう。そんな中、貴種流離譚のような伝説ができあがり、広がっていったというのは、想像できます。
山を歩きよったら解りますが、山は、上の方で、我々が想像する以上につながっちょりますので、それぞれの伝説が綯い交ぜになって複雑な伝説、伝承が今に残っちゅうがでしょうか。