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思いが伝えられる風景〔4038〕2014/05/06

思いが伝えられる風景

2014年5月6日(火)薄曇り

今朝は、午前中会社に行っちょりまして、帰りがけにここ、南国市岩村に寄っちょりました。

長宗我部元親が、秀吉軍に降伏して土佐一国を安堵されたのは天正13年(1885年)。で、秀吉の命で九州、大友氏の救援に向かい、豊後戸次川の戦いで、大バカな軍監仙石秀久のせいで破れたのが天正14年(1886年)。その際、最愛の嫡男、信親くんが討ち死にしてしまいました。それが、元親にとって最大の不運、悲劇であった訳です。
俊秀の誉れ高かった長男信親くんは、元親の後継ぎとして誰にも異存のない武将でした。しかし豊後で戦死。

そこで、元親さん、四男の盛親くんを後継ぎに指名。それではイカン、と進言した従兄弟の比江山親興さんや甥の吉良親実くんを血の粛清、盛親後継を強行したのは有名な話。そこから、鉄の団結を誇った長宗我部一門の綻びが始まり、衰亡への道を歩み始めた、とも言われます。
さて。盛親くんは四男。長男が戦死したのであれば、順番から言うて後継は次男。次男は、香川氏へ養子に出しておった親和くん。しかし元親の、盛親後継に対する思いは強く、家臣団の進言にも耳を貸さず。そんな中、天正15年に親和くんは亡くなってしまいました。
岡豊山へ車道を上がって行きよりましたら、右手の道端に、白い木製の小さな標柱があり、その下に香川五郎次郎親和さんの墓所があることを示しております。長宗我部家墓所ではない、そんな外れた場所に、何故葬られたかは、上のいきさつが関係しちゅうがでしょうか。

次男の次は三男。元親三男は、津野氏の養子になっちょった津野親忠くん。元親にとって、盛親くん後継を脅かすのは、津野親忠くん一人になった訳です。で、心配でたまらんかったがでしょう。身体も弱って亡くなる直前の慶長4年(1599年)、元親は、三男の津野親忠くんを霊巌寺に幽閉したとされます。現在の南国市岩村。
そして元親は亡くなり、翌年、関ヶ原。盛親くんは西軍についてしまい、敗戦。色々と不安になった盛親くん、重臣の久武親直の讒言で、幽閉中の津野親忠くんを殺害。強制的に自刃させた、とも。

これに激怒したのが家康で、これを口実に、長宗我部家は改易された、とも言われます。

結局のところ。
信親くんが戦死してからの元親の迷走が、一族の滅亡につながったとも言えます。元親によって粛正された一党の思いがそうさせたのかも知れません。

この写真。
右手の森が、津野神社。津野親忠さんは、その神社の下に眠っちゅうとされます。左手の小さな森。霊巌寺でしょうか。その鬱蒼とした樹々に埋もれ、古い五輪塔。元々、右手の津野神社の場所にあったとされる五輪塔は、親忠さんが幽閉され、殺害されたとも自刃させられたとも伝えられる霊巌寺のあった、あの小さな森に移され、樹々に埋もれて立っています。

手前の田んぼの真ん中に、小さな塚。小さな小さな祠も乗っちゅう、小さな塚。香長平野には、このような、田んぼの真ん中に、土盛りや五輪塔などが残されちゅう風景が、よく見受けられます。
そこは、昔、戦死した方などがおった場所。そこに葬られ、今でもそこはこのように塚となって、祀られ続けゆう、という話です。田植機の邪魔になろうがどうであろうが、大切に祀られ続ける塚。

人々の想いが何百年、幾星霜、残されていく風景。


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