米軍上陸作戦と上岡山〔4026〕2014/04/24
2014年4月24日(木)晴れ!
いやいや、こんなこともあるがですね。
こないだの日曜日、雨の中、鏡川を遡上して旧鏡村界隈をたつくったことを書きました。その中で、針原という集落で兼光地蔵さんに手を合わせてきたこともご紹介しちょります。2008年4月、その兼光地蔵さんを尋ねて初めて針原へ走って行った際、畑仕事をされておられたおじいちゃんが、お地蔵さんの場所や、その謂われなどを色々と教えてくれ、帰りにはキンカンやらおネギやらをいっぱい下さったのであります。詳しくは、その日のにっこりを読んで頂ければ有り難いのでありますが、そのおじいちゃん。界隈に多い今井という姓の家は、お地蔵さんゆかりの猛将、今井兼光さんの後裔になる、というお話を聴かせてくれました。そのおじいちゃんも今井さんでした。高知大学を退官された、とおっしゃっておりましたが、その今井さん、今朝の高知新聞に載っちゅうではありませんか。今井嘉彦さん。
社団法人「日本河川協会」が、河川や水の研究に貢献した人物を表彰する、河川功労者に、その今井さんが選ばれた、という記事。
この日曜日に久々に針原をたつくり、そんな話を思い出したばっかしでしたので、ことの偶然に驚いた訳です。人生、世の中、なかなか不思議な面白いものと実感つかまつりました。おめでとうございます、今井さん。
さて。
ここは今朝の野市、上岡八幡宮さんの横。上岡山の山裾の、太平洋戦争末期に掘られた海軍の壕の入り口があった場所。以前、発掘調査が行われた際にご紹介しました。
県内各所には、戦争の際に掘られた壕がたくさんあります。そのほとんどは、住民が逃げ込むための防空壕なのですが、海岸近くの山などに掘られちゅう壕は、米軍の上陸作戦に備えて掘られた要塞壕であることも多いようです。第十一師団司令部が置かれた介良の鉢伏山などはその典型例で、あの山には今でもいたる所に要塞壕の痕跡が残ります。
ここ、上岡山の壕は、山を貫通するように掘られちゅうので、どうやら海軍の施設として構築されたものと思われます。対岸に海軍航空隊の飛行場があり、米軍の攻撃対象となっちょりましたので、それに対する防衛施設でしょうか。
ここで、米軍の日本本土上陸作戦について簡単に整理しちょきましょう。
もし、昭和20年8月15日に戦争が終わってなかったら。
連合軍の、本土上陸全体作戦はダウンフォール作戦と名付けられました。その中に、様々な具体的作戦が検討されちょった訳ですが、まず、実行される予定やったのがオリンピック作戦。昭和20年11月1日に開始が予定されちょったそうです。南九州への上陸作戦。それを容易にするため、囮作戦として計画されたのがパステル作戦。これが、高知沖での作戦。高知沖に連合軍の艦隊を集結させ、四国上陸が本命である、と、日本軍に思わせる。そうしちょいて、防衛部隊の分散化を図り、九州へとてつもない大軍を向かわせる、という計画。
そして、南九州を占領し、航空基地を構築、大部隊を駐屯させちょいて、そこを基地として関東上陸へと移行する、という作戦でした。関東上陸作戦はコロネット作戦。相模湾と九十九里浜に上陸し、東京を挟撃する、というもので、もし実行されちょったら、東京は、どんな東京になっちょったか想像もできません。
米軍の上陸作戦は、まず、海岸近くに戦艦を並べて、それこそ山容が変わるくらいの徹底した艦砲射撃を陸に向こうて実施します。基地や要塞と思われる部分を徹底的に砲撃、爆撃し、軍勢をあぶり出しちょいて、水陸両用の上陸用舟艇で大軍を上陸させ、地上掃討作戦を進める、というもの。
パステル作戦は陽動作戦であった、と言われますので、高知には、本格的上陸攻撃はなかったかも知れません。しかし、戦争のこと。何がどうなっていたか、実際にはまったくわからない。
日本の太平洋側には、米軍上陸作戦に備えてたくさんの壕が掘られ、山が要塞化されよりました。しかし、武器も弾薬も尽き果て、兵士も残っていない状況で、どれだけのことができたでしょうか。
今も、この、高知の海岸近くの山々には、たくさんの迎撃施設痕跡が残ります。ここで本気で戦争をしようとしていた痕跡。後世に、キチンと伝えていきたい痕跡。