大鋸屋橋界隈〔4025〕2014/04/23
2014年4月23日(水)晴れ!
良いお天気。
ここは今朝、4時過ぎの大鋸屋橋。菜園場から電車通りを渡って南へ行った、堀川に架かる橋。橋の向こうは九反田。ホテル日航高知旭ロイヤルさんが、美しく屹立する堀川沿い。数週間前までお花見で賑わいよった界隈は、桜も青葉になり、今は静かなたたずまい。
昨夜、その、右端に見える白い建物の場所で、生まれ、育ったという元JALのパイロットさんと飲んでおりました。で、その方、お父様の趣味が写真であった、ということで、お父様が撮影された貴重な写真の数々をおさめたアルバムを持っていらっしゃいます。飲みながら、見せて頂きました。
素人ではない、非常に芸術的なアングルの素晴らしい写真の数々。その被写体は、子供達であったり近所の風景であったり。その中に、この場所のものもありました。
あの、白い建物の場所にあった家の二階からこちら側を眺めた写真も。そして、その方が幼い頃、その家の前で堀川をバックに撮ったものには、架け替え工事中の、この大鋸屋橋の場所が写っちょりました。橋が無い、この場所。今はもう古く、歴史を感じさせる大鋸屋橋ですが、この橋が架けられる直前の、工事中の写真。昭和30年代前半でしょうか。なかなか貴重なアーカイブ。
アルバムには、そんな貴重な、懐かしさ溢れる写真がたくさん貼られており、今となっては文化財的価値もある、素晴らしい資料となっております。
しかも、写真一枚一枚が、プロが撮ったようなキチンとした構図なので、一連の芸術写真を観ているような気になります。いや、まさしく芸術写真。
この向こう、九反田は、山内氏が土佐入国してきた頃は湿地帯。そこに九反ばかりの田んぼができたのが町名の由来ですが、その後、藩の米蔵ができたりして高知の城下の物流センターのようになります。物流の大動脈が、この堀川ですきんね。
明治の頃の市街地図を見てみましょう。明治26年に河田小龍さんが描いた高知市街地図。
この場所に、ちゃんと、ヲガヤバシとあります。橋を渡って南へ行くと、藩政期には米蔵であった場所に製茶場。その向かいに青果市場。現在の九反田公園のところに小学校とありますが、これが、第一尋常小学校ですね。
それを東へ行って、現在の東九反田公園の場所に海南学校。幕末、殖産興業の拠点開成館が置かれ、明治になって立志社、立志学舎が創立された場所。そこに、軍人希望の学徒が多かったという海南学校ができちょりました。今の小津高校につながります。そこには括弧書きで、旧旭魚市場とありますき、元々は魚市場やったがでしょうか。そっから東は棒ヅツミ。今の中の島は、かなり埋め立てられてできたことがわかります。
電車通りができる前ですき、この北側一帯はすべてサエンバ町。菜園場町。川沿いに、丹吉釣ヤとあります。広瀬丹吉さんの丹吉針で有名な丹吉釣り具店。釣り針製造では、こじゃんと古くから有名で、元禄時代、つまり1600年代の終わり頃には、既に、土佐名産となっちょったと言いますき、すごい。菜園場に店舗を置いたのは天明元年。1781年。
上記の高知市街図が描かれたころの広瀬丹吉さんは4代目丹吉。その技術の評価は高く、東南アジアにも輸出されよったそうです。国内外の博覧会でも種々の賞を受賞するなど、一世を風靡した丹吉針。
その、明治26年の市街地図に記載されちゅう民間の商店は全部で10軒ほどしかありません。「老舗」として記載されちゅうがですが、そのほとんどが上町エリア。旧郭中であった高知街エリアには中納言さんだけ。そして、下町では、丹吉釣ヤさんだけなのでありますね。
菜園場の東、堀川沿いの農人町の北側にはウラマチと書かれちょります。堀川沿いが表通りで、裏っかわには、庶民が住んだり小さな店が並んだりしちょったがでしょうか。ゴチャゴチャ感が想像できる町名「ウラマチ」。
この、アルバムでは工事中であった大鋸屋橋も、この姿ですと、また、架け替えられるかも知れません。町の風景は、どんどんと移り変わり、記憶と、写真の中だけに残されてゆきます。