大川、寅彦さん、小津、尾戸焼き〔4024〕2014/04/22
2014年4月22日(火)曇っちょります
昨日、潮江川、鏡川のことを書きましたので、今日は大川、江ノ口川。
ここは、お城の真北。県警本部から西へ行った、歩行者と自転車専用の小津橋の上から西を眺めてみました。こっから東へ、江ノ口川の北岸は大川筋と言います。江ノ口川は大川でした。
昨日も書いたように、藩政期以前は、鏡川よりもこちらの方の川幅が広かったと言います。大川。
その、新しいマンションが建ちゆう手前が寺田虎彦記念館。寅彦少年は、多感な少年時代をここで過ごし、後年になってたくさん書かれた随筆にも、この棲家や付近の風景がいっぱい登場します。今は小津町。この北に小津高校があります。小津。
古代、現在の高知市街地が浦戸湾の底であった時代、湾には3つの港、つまり津がありまして、大津、ここの小津、現在の愛宕山南端の中津であった、という話は有名なので、ご存知やと思います。その一つの小津は、この北にありました。
山内氏が入国し、大高坂山にお城を築いて城下町建設を始めた時代。北の大川、つまり江ノ口川と南の潮江川、つまり鏡川には外堀の役目を果たしてもらうことになりました。ので、流路は整備されたのであります。
藩政期の絵図を見ると、西から流れてきた江ノ口川、この界隈で直角に右に折れて南進、お城の山に突き当たって北東に流れを変え、また東に流れて浦戸湾へと向こうておりました。
その江ノ口川の北側。つまりこのしゅっと東側で、承応二年(1653年)、陶器の製造が始められたのであります。野中兼山が執政の時代ですき、首謀者はこれまた野中兼山さんやったかも知れません。摂津の陶工、久野正伯さんを招いての、土佐での陶器づくりの黎明。ここで焼かれる陶器は、尾戸焼きと呼ばれました。
その後、陶器産業は金になる、と考えた藩は、文政三年(1820年)に能茶山に窯を開いてここにあった窯場を移設し、増産を図りました。能茶山には、原料となる粘土が豊富やったきですな。しかし、尾戸焼きの名称は残り、今も、尾戸焼きという名前で陶工によって名品が焼かれつづけているのもご承知の通り。
その尾戸焼き。おどやき。小津の地で焼いたことで、「おづ」が訛って「おど」になり、尾戸焼きになったがにかありません。この話はメッソ知られちゃあせんかも知れませんね。
寺田寅彦さんが過ごした時代。その頃も、江ノ口川はここで直角に折れて南進、山裾で北東に流れを変え、東へ向こうておりました。この家から見えた風景は、今とは随分違う風景。
マンションが建ち、寅彦さんが過ごした家も、風景に埋没してしまいそうになりますが、間違いなく、偉大な物理学者にして文学者の人格は、ここで形成されていきました。