鏡川の変遷〔4023〕2014/04/21
2014年4月21日(月)小雨
昨夜は遅うまで、大切な大切なお客様と飲みよったので、ちくと遅寝をしてしまいました。家へ帰り着いたがが午前1時を過ぎちょったので。
ここは今朝、5時半過ぎの鏡川。霧のような雨に風景が濡れる河畔。その橋は潮江橋で、彼方に天神大橋もちょっとだけ見えます。
昨日、この川沿いの遡上RUNをやって来た訳ですが、鏡川、実に良い川です。鮎が釣れ、水泳ができる美しい川ですが、市町村合併により、源流から河口まで、ぜんぶ高知市になりました。鏡川。
11年もにっこりを書きよりますので、鏡川については、たくさんどっしこ書いてきました。ので、ご存知の情報ばっかしやと思いますが、二日酔いでネタを考えるががタイソイので、今朝は鏡川のおさらい会。
さて。この高知の市内は、古代は浦戸湾の底であったのはご承知の通り。ですきに、その頃の鏡川河口はとっと西にあったでしょうか。中世の頃に少しづつ干拓や市街化が進み、山内氏の入国を迎えたのであります。
その頃、何という名前で呼ばれよったのか。河川というのは、同じ川でも、その流れゆう場所によって名前が変わるがが当たり前でした。この、高知の城下町の南側部分。ここは、潮江ノ川とか、単に南川とか呼ばれよったにかありません。当時は江ノ口川の方が川幅も広く、そっちが大川と呼ばれよったりした訳です。
で、潮江ノ川ですが、元禄年間に、5代藩主山内豊房さんが、たくさんあった呼び名を「鏡川」にした、とされます。もちろん、川面が鏡のように美しいので鏡川。その風雅な名称は、主に文人とかに好まれたようではあります。ただ、それがすべての庶民にも一般的名称であったかどうかは定かではありません。やはり、潮江川と呼ぶヒトも多かったでしょう。
もうちょっと上流へ行くと、雁切川と呼ばれる箇所もありました。現在の紅葉橋界隈。もちろん、紅葉橋のところに架けられちょった橋が雁切り橋と呼ばれよったことに由来します。何故雁切り橋かと言えば、その河原に刑場があったき。この名称は、ちょっと、風雅ではありません。
そっから上流へ行くと、杓田とか尾立とかの地名があるので、そんな名前で呼ばれよったかも知れません。
そうそう。昨日、旧鏡村の温泉施設RIOからバスに乗って帰って来た訳ですが、車内アナウンスの録音が変わっちょりました。それは、バス停の読み方でわかりました。
尾立は、「ひじ」と読みます。以前のアナウンスは、「ひ」にアクセントがあって、「じ」が下がる読み方でした。が、現在のやつは「ひ」が低く「じ」にアクセント。
また、「ホケ」というバス停があるがですが、以前は「ホ」にアクセントがあって「ケ」と下がる読み方やったのが、今のは「ホ」が低くて「ケ」にアクセント。たぶん、地元では、現在のアナウンスのように呼ばれゆうがやないろうかと推察します。現状の真実に合わせた修正を、小生は歓迎します。
それはともかく鏡川。
この河原は、藩政期にはもっともっと広く、城下の人々の憩いの場でもありました。夏ともなると、夕方、夥しい善男善女が繰り出して涼み、楽しんでおりました。
特に幕末。他の地域で「ええじゃないか」が流行した頃、ここ、鏡川河畔では「のえくり」が大流行。その話は以前にも書きましたので、そちらをお読みください。とにかく、毎夜毎夜、すさまじい賑わいを見せた鏡川河畔、慶応三年の夏。
しかし、それ以前から、ずうっと河畔は人々の重要なスポットでありました。享保十年と言いますき、1725年、つまり「鏡川」と呼ばれだしてまだそんなに経ってない頃の記事に、このようにあります。7月のお盆の時期のこと。
「毎夜暮より朝七ツ頃迄 夥敷群集す。余り仰山にて御目付より御指留、前代未聞之事也」
明けの七ツと言うと、朝の4時頃ですきんね。そりゃあソバエ過ぎ。当局から、あまりのことに排除命令が出た訳です。酔うたんぼが溢れちょったことでしょうな。
小生、昨夜帰ったのは1時過ぎですき、これに比べたら真面目なもんです。いや、ホント。