競馬と炭坑〔4015〕2014/04/13
2014年4月13日(日)雨
春の雨。音も立てずに静かに降る雨。
さんさ時雨か萱野の雨か 音もせで来て濡れかかる ああしょうがいな〜
ご存知伊達政宗軍が、戦勝を祝うて歌うたとされる「さんさ時雨」。静かな雨に濡れるとき、この民謡を思い出します。この歌、歌垣的な要素があって、祝いの歌とされた、というのをご存知でしょうか。つまりですね、「しぐれ」と「濡れかかる」は、ここには書けないその場面を連想させちゅうという訳です。よさこい節と同じですな。
2番はもちろんそうですし、これも。
みませ 見せましょ 浦戸(裏戸)をあけて 月(突き)の名所は 桂浜
ああ恥ずかしい。しかし、昔の民謡、俗謡には、実にそういった要素が散りばめられて健康的ですらあります。日本人の生きる姿が、そんな歌に垣間見えますね〜。
ここは今朝の長浜。ちくと所用があって、行っちょりました。長浜には若宮八幡宮さん。長宗我部元親さん出陣の際、戦勝祈願をしたという若宮八幡宮さんは、雨の中、静かに厳粛に幽玄に鎮座ましましちょりました。
その参道のカーブする玉垣。こないだも同じアングルでご紹介しましたね。小生が、長浜競馬の痕跡カーブではないか、と妄想する曲線。
長浜には、戦争を挟んで、昭和8年から昭和25年まで、公認の地方競馬場がありました。今の南海中学校の南界隈。戦前は、桟橋競馬と並ぶ公認競馬で、凄まじいまでの観客を集めたと言います。この長浜競馬ができる以前は山田競馬。昭和2年の記録では、その山田競馬でも1日に3万人のお客さんを集めた、と記録されちょりますき、凄まじい。たぶん、ここ、長浜の競馬場も、レース開催ごとに、県内あちこちからたくさんの観客を集めたと思われます。競馬が、娯楽の花形であった時代。
昭和25年、高知の競馬は桟橋に開設された高知競馬のみとなり、人気を博しました。その桟橋の競馬場が、現在の場所に移転したのは1985年。昭和60年。そして、現在まで続けられてきた高知競馬。しかし、いつしか赤字経営が続くことになりました。中四国で残る地方競馬は、いつの間にか高知競馬だけになってしもうた、とのこと。他の地方競馬は、採算が取れずにどんどんと廃止されてしもうた訳です。しかし高知競馬は生き残りました。
競馬場が成り立たなくなった理由は、お客さんと売上の減少。競馬は、競輪などと違い、馬を飼育するヒト、調教するヒト、飼料を供給する業者などなど、非常に裾野が広いのであります。関わる産業も人間の数も、べらぼうに多い。それだけの人間を養うに足る、そんな産業でした。それが、社会構造の変化で、お客さんが減る。ギャンブル、娯楽、ということで考えたら、それこそ、選択肢が増えたどころの騒ぎではない。競馬は、娯楽の殿堂の地位を、他の娯楽に明け渡さざるを得なくなった訳です。
誰かがおっしゃっておりました。競馬事業の衰退は、炭坑の衰退と、まったく同じ現象である、と。社会構造の変化によって需要が減った、しかし、関連する裾野がやたらに広い産業の問題。なるほど、と思わされてしまいます。
今日、長浜からの帰りがけ、現在の高知競馬場の横を通りました。
おう!
駐車場に車がいっぱい。雨にも関わらず、なかなかの人出。すごいやいか、と思いました。今日はG1レースの桜花賞が、中山競馬場で開催されます。その馬券を、ここ高知競馬場で購入でき、大型スクリーンを見ながら楽しむことができるようになっちゅう訳です。今日の桜花賞を楽しみに、たくさんのお客さんが訪れちょったということでしょうか。高知での競馬人気は、昔程ではないにしても根強い根強い。
中央競馬の馬券を発売し始めて、高知競馬、赤地体質からの脱却を始めました。
これからどうなっていくのかは、誰にもわかりません。産業構造の問題ですき。
競馬人気沸騰の時代の痕跡カーブを見た帰りに、中央競馬のG!1レースで盛り上がる高知競馬場横を通りながら、考えました。