八幡通りは棺屋町〔4006〕2014/04/04
2014年4月4日(金)晴れ!
今朝は高知。昨日の最終の飛行機でモンて来ました。東京も高知も雨でしたが、今朝はその雨も上がり、洗い流された風景が美しく輝いております。雨上がり、結構好きです。
ここは八幡通り。電車通りの、はりまや橋バスターミナル前から北向いて撮影してみました。夜明け前のこととて、車も少なく、静かな電車道。
以前、この場所に「八幡通り」という電停がありました。デンテツターミナルビル前という停留所が無くて、はりまや橋から東へ向かうと、はりまや橋の次が八幡通り、そして菜園場やったですよね。
こっから北へ行ったしゅっとの角に八幡寿司というお寿司屋さんもありました。
もちろん、ここを北へ抜けた所に高知八幡宮さんが鎮座ましましちゅうので、八幡通り。その高知八幡宮さんは、元々高知城内に鎮座。明治4年になって、現在地に遷座して参りました。なので、お城周辺の皆さんは、氏神様が高知八幡宮さん、というケースが多い訳ですね。
では、明治以前、この通りは何と呼ばれておったのか。
棺屋町。
かんやちょう。棺屋さんの町。ご存知でしたでしょうか。メッソ楽しい町名ではないので、今に伝えられてないのでありましょうか。通称、棺屋町。
その由来は藩政期初期に遡ります。やはりここにも登場するのが野中兼山さん。藩政期初期、彼を凌ぐ存在感を持つ人物は、土佐には存在しませんな。
野中兼山さんは、土佐南学の学者さんでもありました。土佐南学は、儒教のひとつ、朱子学の一派。南村梅軒を祖とし、教え継がれ、土佐で谷時中さんが確立しました。その弟子の一人が野中兼山さん。教義には実践が織り込まれ、その考え方が、幕末、維新の志士たちに引き継がれていったのは有名な話。
その土佐南学は、儒教でもありますので、火葬を禁じておりました。遺体を傷つけるのは罪である、という考え方にかありません。で、野中兼山さんは、火葬を禁止し、土葬を奨励したのでありました。ちなみに、火葬は、仏教の葬送様式でもあり、早くから日本でも行われよった方法。しかし、燃料費などがかかるので、土葬も一般的ではありました。
さて。
野中兼山さんは、土葬を奨励するだけでなく、棺桶製造業者を育成しました。ここが、他の為政者と発想が違うところでしょうか。で、この向こうの通り沿いに棺桶業者を集住させ、ここ以外の場所での棺桶売買を禁じた、と、平凡社発行「高知県の地名」に書かれちょります。なるほど。城下では、この通りだけが棺桶製造販売を許された、という訳です。それで、棺屋町。
紺屋町とか材木町とか八百屋町とか細工町とか、そこで盛んであった商売にちなんだ町名は、今も語り継がれておりますが、さすがに棺屋町は聞きませんね〜。
明治になり、火葬が行われるようになり、高知八幡宮さんがこの北に遷座されてきて、この通りは八幡通りになったのでありましょう。
ところで、「薬指がヘチ向く」事件を覚えちょりますですろうか。昨年12月14日早朝、筆山の山中を、秋月長左衛門さんのお墓を求めてたつくりよった際、足を滑らせて転倒、右手薬指がヘチ向いた、という、あの恐ろしい事件。
筆山は、藩政期を通じて、身分の高い人々を中心に葬られて来た墓山。山道から少し山中に入れば、夥しい墓石が散在しちょります。野中兼山先生の教えにより、たぶん、すべて土葬墓。たつくりよったら、知らず知らず、その土葬の上を踏んで歩くことにもなります。
あまり、暗い時間帯にたつくるがは、せん方が良いかも知れません。