高天原と高間原、旧石器時代、弥生時代、古墳時代〔3993〕2014/03/22
2014年3月22日(土)快晴
良いお天気。こないだ行っちょった岩手県など、3月というのに大雪になったにかありません。お邪魔しちょった岩泉町では、一晩に67cm積もったということ。一日違いでした。もう一日早うに雪が降っちょったら、小生、まだ高知へモンて来れちょらんかったかも知れません。67cmも積もったら、普通のレンタカーで盛岡まで戻るのは大変やったと思われます。
それにしても北国。大変です。粘り強い東北人は、このような気候の中でつくられていくがですね。南国でのんびりまったり過ごす我々とは、粘り強さが全然違います。ホントです。
さて。
昨日、高天原山をたつくった話を書きました。今朝、出勤してから今一度調べ、そして山の全景を撮影してきました。介良の旧道、介良川に架かる橋から撮影したのがこの写真。真ん中の一番高い部分がピークで標高107m。右手が東の峯、左手が西の峯。なるほど。昨日たつくったのがどの辺りなのか、よくわかりました。
で、高天原と高間原については、調べてみますれば、この山のうち、大津分に属する部分が高天原、介良分に属する部分が高間原、ということになっちゅうにかありません。
山頂は大津分に属するので高天原山なのでしょうか。
西の峯、標高80m界隈に広がる古墳群は高間原古墳群。あの界隈は介良分ながでしょう。土佐の、後期古墳時代に属する古墳がたくさん並ぶ高間原。そこから、旧石器時代の細石器が発見されちゅう、という話を昨日も書きました。一万年以上前。当時、海面の高さはいまよりずっと低い時代。人々は、山で、狩猟や採集の生活を送っておりました。
往古、ここ、つまり高天原山の南側を、物部川が流れていた、という話もあります。物部川は、香長平野の途中から西に進路を変え、ここを通って浦戸湾方面へと流れておったとか。そうとすれば、この山上に旧石器時代人が暮らしていた時代、物部川の魚も、彼ら彼女らの貴重な食料であったがかも知れません。
この山の北斜面、つまり、向こう側の標高50〜70mの部分に、高天原遺跡があります。弥生時代中期の高地性集落。こっから南東へ数キロのところに、田村遺跡。弥生時代中期と言えば、その田村遺跡が栄えた時代。南四国最大級の規模を誇る集落。そこからそんなに離れていないこの山の北側斜面に高地性集落。
高地性集落は、軍事的意味合いがあるとも言われます。と、言う事は、田村やその周辺に暮らす人々の、砦のような意味合いの場所であったのかどうなのか。妄想が暴走します。
その、弥生の時代が終焉師、田村から人々が消え失せた後、この山に古墳が築かれました。そういう類縁関係があるがでしょうか。有力者は、弥生の時代から、完全に入れ替わったのでしょうか。
それはともかく。
あの、西の峯のところから山頂へは、道がありません。雑木林。神聖な山として、人々が立ち入らんようになっちゅうがでしょうか。しかし、朝倉神社の赤鬼山のように、ご神体山とは聞いたことありませんので、古くからの信仰の山ではあっても、禁足地ではなかったと思われます。
ので、昨日は、登ってみました。あの稜線に沿い、頂上まで。
樹々はまばらで、そんなに登りにくいことはない斜面。頂上界隈は、ちょっと鬱蒼として、バラのある木もありました。眺望はなし。しかし、界隈には大きな岩もあり、磐座としての雰囲気十分。何ともいえない神々しい雰囲気に、口もきけずにいると、すぐ横から大きな鳥が飛び立ちました。
高天原山は、昔も今も、これからも、人々にとっての神の山。