寺田寅彦追想〔3988〕2014/03/17
2014年3月17日(月)良か天気ですたい
そんな訳で今朝は熊本。昨夜は、もちろん馬刺を食して参りました。熊本ですきんね〜。牛の生レバやユッケが食べれんなった昨今、馬の生肉は貴重です。ホントに、おいしゅうございました。
3日続けてお肉ばかり食べておりましたので、今朝は、その重たい身体を引き締めようと熊本朝RUN、13km。しかも山を含むので、なかなか壮快でした。
ホテルを出たのは朝5時。もちろん真っ暗。で、熊本大学の方へと向かいます。熊本大学は旧制五高。第五高等学校。ここの卒業生の一人に、我が土佐の偉人、寺田寅彦さんがおります。高知県立尋常中学校を卒業して五高に入学したのは明治29年。その際、中学校の同級生達と出発、川田明治さんとかとも一緒やった話は以前も書きました。
何故、五高か。それまで、高知の優秀な学生は京都の三高へ進み、そして東京帝国大学というコースが普通でした。実は、帝国大学が東京だけではいかん、ということで、京都帝国大学ができ、一時期、三高がなくなっておった時期があるがです。寅彦少年が進学する、丁度その時期。で、寺田寅彦さんは、五高から東京帝国大学へと進んだ訳です。
熊本の、極めてバンカラな校風の旧制高校で、おとなしい寅彦少年は悩んだことでしょう。
しかし、彼に撮って極めて幸運であったのは、物理の先生に田丸卓郎先生が居たことと英語の先生に
夏目漱石先生がおったこと。田丸先生には物理とバイオリンを、夏目漱石先生には英語と詩作を習うこととなり、後の人生に非常に重要な出会いとなった訳です。もし、三高へ行っていたら、偉大な文章家でもある寺田寅彦さんは存在せんかったかもしれない。
さて。寅彦少年は、五高の「習学寮」という寮に入寮します。その際の、武夫原(ぶふげん)と呼ばれる運動場の描写が「月見草」という随想の中にでてきます。以下抜粋。
「高等学校の寄宿舎にはいった夏の末の事である。明け易いというのは寄宿舎の二階に寝て始めに覚えた言葉である。寝相の悪い隣の男に踏みつけられ眼をさますと、時計は四時過ぎたばかりだのに、夜はしらしらと・・・(中略)・・・・床はそのままに、そっと抜け出して運動場へ下りると、広い芝生は露を浴びて、素足につっかけた兵隊靴を濡らす。ばったが驚いて飛び出す羽音も快い。芝原の囲りは小松原が取り巻いて、隅のところどころには月見草が咲き乱れていた。」
この写真は、かつて武夫原であった運動場。その向こうに習学寮があったようです。左端に立田山の一部が見えます。そう、立田山。
バンカラ学生の間で嫌な思いもしていた寅彦少年は、田丸先生にバイオリンを教えてもらうと、すっかりハマッてしまいます。そして、なんと、自費でバイオリンを購入してしまうのでありました。明治31年5月19日、と、購入した日までわかっちょります。
嬉しくてたまらない寅彦くん、翌日には立田山に登り、音を出してみました。
そんな訳で、今朝は、旧制五高、つまり熊本大学の横を抜け、標高152mの立田山に一気に駆け上がってきたのであります。丁度良い加減の負荷がかかる、良い山。ただ、今は、山頂付近も樹木が大きくなり、山頂からの眺望はありませんが。
寅彦くんの日記から。
五月二十日
帰校后、竜田山に登りバイオリンを弄す。細雨折々下る。
五月二十一日
帰宿后又竜田山にてViolinを弄す。
五月二十二日
昼飯后バイオリンを携えて山に登り帰りて数学演習。夕飯后又登山、下司君と山頂に横臥してバイオリンを弾ず。壮快限りなし。
五月二十三日
例の如く山頂へバイオリンを弄しに行く。
う〜ん、連日ですな。よっぽど嬉しかったのでありましょう。
立田山は標高152m。そんなに身体の強くない寅彦少年ですが、苦にもせずに連日登ってバイオリン。バンカラ五高生の前で練習するのが嫌やったことが手に取るようにわかります。
今朝、立田山頂上に駆け上がってみました。しばらく山頂を散策しよりますと、一人のおんちゃんが歩いて登ってきました。そして。
突然、歌を歌い始めました。なかなか美しいテノール。アルペジオ練習の後、「帰れソレントへ」などを原語で歌い始めたので、聞き入ってしまいました。寅彦君の時代から、今も変わらず、立田山頂は音楽の練習スポットとして使われ続けゆうがが面白うございました。
熊本大学の構内には、寅彦くんが一年生の時に住んだ習学寮跡の碑が立ちます。武夫原は、今も運動場。立田山に登ってバイオリンを弾いた寅彦少年を思い浮かべ、その心情を思いながら朝RUNを堪能してきた熊本の早朝。
と、ここまでは熊本から汽車の中で書きました。iPhoneを忘れちゅうのでネット環境がありません。ので、熊本から新幹線と南風を乗り継いで、今、家に帰って来て、UPしよります。もうまあ22時半。久々に、こんなに遅い更新になってしまいました。もう寝ます。おやすみなさいませ!