長浜競馬の痕跡カーブ〔3974〕2014/03/03
2014年3月3日(月)晴れ
良いお天気のお雛さま。3月3日。春の陽気が朝から高知を覆います。
一昨日、土佐山田に昭和初期に存在した、山田競馬の痕跡について書きました。昭和2年には3万人の観客を集めたという山田競馬。その山田競馬は、昭和8年に廃止になり、長浜に新設された長浜競馬が、公認の地方競馬として開催されるようになり、戦後の昭和25年まで人気を博したといいます。桟橋に高知競馬場が開設されるまで。
山田では、今の工科大学と鏡野公園のところに四国種馬所が誘致開設されて、軍も必要としよった馬の改良が盛んに行われました。その馬場を利用して、草競馬も行われよったそうです。その草競馬を主催した人物に、片地村の鍵山さんという人物の名前が見えます。片地の鍵山さんと言うと、ひまわり乳業草創期からお世話になった酪農家さんの関係かも知れません。
戦争が終わり、人々が娯楽に飢えた時代。県下各地で、法的根拠のない、いわゆるヤミ競馬が人気を博しよったにかありません。山田の種馬所の馬場でも、ヤミ競馬が開催されました。
そんな時代、公認の長浜競馬は昭和21年に復活、娯楽の王様として、人々に夢を与えたのでありました。
その競馬場の痕跡は、今はもう、ほとんど見ることができません。
国土地理院のホームページに国土変遷アーカイブというのがありますが、それで、長浜地区の、昭和22年に米軍が撮影した航空写真を閲覧できます。それを見ると、見事な楕円形の馬場が確認できますね~。すごい。
その航空写真と、現在のGoogleマップを比較して見てみます。
すると、長浜競馬は、南海中学校の南側に隣接するようにあったことがわかります。馬場の南西部分は、若宮八幡宮さんの参道に接しちょります。そこで、今朝、その部分を確認に行っちょりました。ありました。痕跡カーブ。違うかも知れませんが、たぶんそう。
若宮八幡宮さんの駐車場の東側の道と玉垣。いかがでしょうか、この美しいカーブ。ここに、馬場のカーブがあったがかも知れません。
山田競馬が大人気であったように、ここ、長浜競馬にも、戦後の混乱に喘ぐ高知県民が、ひとときの娯楽を求めてやって来たのでしょうか。そんな風景が目に浮かびます。
今朝は、ここを確認しちょいて、若宮八幡宮さんにお参り。土佐神社の入り蜻蛉と対比させられる出蜻蛉形式の社殿を、ゆったりした気持ちで拝んできました。
源頼朝が、父為義公の冥福と源家の武運長久を祈って、為義さんの邸跡地に岩清水八幡宮の御神霊をを勧請、六條若宮八幡宮を創建したのは文治元年(1185年)。その際、源家は、この界隈を含む吾川郡一円を神領地として奉納、土佐の若宮八幡宮を創建した、と、由緒略記に書いちゃありました。
なにより、長宗我部元親さんが初陣の長浜合戦で、若宮八幡宮に戦傷祈願をし、四国制覇まで突き進むきっかけになったのが有名。
その若宮八幡宮さんに、競馬場が隣接しちょった時代。このカーブだけが、その頃の痕跡をとどめております。