3万人の山田競馬〔3972〕2014/03/01
2014年3月1日(土)曇り
3月になってしまいました。暖かい朝。
一昨日、最新号の土佐史談254号からの話題をご紹介しましたが、今日もやります。高知県の馬政と競馬の歴史について。長山昌広さんという方が、実に丁寧に論文を纏めておられます。
戦前の高知では、各所で、草競馬のようなものが盛んに行われておりました。そんな中、政府の、軍馬改良を大義名分にした競馬に関する法律ができ、各地で公認の地方競馬が行われるようになった訳です。高知では、まず、大正期、以前の競馬場の場所、つまり今の南高校の場所に競馬場がつくられ、桟橋競馬場と呼ばれるようになったそうです。
そして。大正末年になって、山田町、今の香美市土佐山田町に、競馬場がつくられました。種馬所、現在の鏡野公園のところかと思いよりましたら、違いました。街中。
この文献によりますれば、山田西町の南、宝町界隈だそうです。駅からちっかい。交通の便利が良いことも、競馬場開設の条件やったがかも知れません。
その後、山田の競馬場は廃止され、昭和10年に、今の鏡野公園のところに四国種馬所が誘致されてからは、そこの馬場を利用した草競馬が開催されるようになったようです。それは草競馬。
で、公認の地方競馬としては、山田競馬の替わりに長浜競馬が開設されました。昭和8年のこと。今の競馬場の場所ではなく、南海中学校の界隈にかありません。戦後も、長浜競馬は開催されたので、国土地理院ホームページのアーカイブをみたら、昭和22年の航空写真にはっきりと馬場が写ちゅうがが確認できます。
地方競馬。軍馬の改良が目的ではありましたが、「優勝馬投票券付入場券」というのが売られ、一人一枚限りで、現金ではなく景品交換、ということになっちょりました。が、それはそれ。人間のすることですきんね~。色々抜け道はあり、おおっぴらに現金化することもできよったにかありません。そりゃあそうだ。競馬ですもん。
その人気たるや、凄まじい。今の娯楽なんぞは足下にも及ばない。
その論文では、昭和2年12月に3日間開催された山田競馬の人気の様子を紹介しちょります。土陽新聞の見出しには「初日の見物二万五千人
馬券の売上一万八千円山田競馬場第一日の勝負」とあるそうです。翌日の見出しが「山田の競馬前日以上の盛況
馬券売上二万一千円二日目の勝負」。そして翌日の記事は「最終日は前日の番狂はせと好取組に人気いよいよ沸騰し、加ふるに日曜日のこととて観衆無慮三万、馬券売上高六万二千円に達して…」
3万人っすよ、3万人。地方競馬に。山田の。どれだけ、競馬に人気があったのか、想像もできません。
同じ論文によりますれば、全国の競馬の開催成績では、全国10ヶ所の公認競馬(今の中央競馬みたいなもんでしょうかね)を除く、地方競馬売上ランキングの第一位は東京の羽田競馬、第二位が高知の桟橋競馬、そして第四位に高知の山田競馬、と、その集客力が高いことが紹介されちょります。高知県人は、昔から競馬が大好きやったのでありますね。
この写真。土佐山田。
山田西町の、香長中央病院さんのところから南へ、立田に抜ける道の途中から、斜めに左へ入っていく道があります。その斜めの道の先で、撮影しました。
上の論文でも、山田競馬の位置については、山田西町の南、宝町界隈としかわかっちょりません。ので、今朝、現地をたつくってみました。
現在のGogleマップを見ても、はっきり痕跡とわかる地形は確認できませんでしたが、現地で見つけたこのカーブ。どうでしょうか。馬場のコーナーに見えませんでしょうか。そう思うて、マップに今一度目を凝らしてみますと、なんとなく、楕円の馬場が見えてきたような気もします。
その馬場の内側には、水路もなく、平坦で、今も畑や工場などの広い敷地が残ります。
これが痕跡がどうかは、今度確認してきます。
が、なんとなく、ここを馬が疾走し、3万人の大観衆が馬場を取り囲む風景が、見えてきました。