佃島の漁民〔3969〕2014/02/26
2014年2月26日(水)晴れ!
今朝は市場休。そうか、水曜日か。水曜日は、市場、休みの場合が多いようで、築地の場内はお休みでした。
今朝は、隅田川沿いをたつくった後、築地に行きましたが、市場休で実に静か。朝一番の飛行機で高知へイナんといかんので、ホテルから走りに出たのは午前4時。普段の築地なら、結構にぎやかな時間帯ですが、今朝は静かなもんでした。
そんな訳で、場外も、午前5時前は、ほとんどのお店が開いちょりません。もんぜき通りでは、深大寺そばのおそば屋さんくらい。そうか。このおそば屋さん、そう言えばまだ食べた事ない、と思い、頂いてきました。春菊の天ぷらと生卵のおそば。
近年、駅の立ち喰いそばとか、個性がなく、あまり楽しゅうないと思いませんか?
ほとんどがJRによって運営されゆうようで、以前みたいな、それぞれの駅のそれぞれの個性が無いなってしまいました。あまり美味しい訳でもない。そんな訳で、築地の深大寺そば、ちょっと懐かしい感じがしておいしゅうございました。早朝ということもあったのでしょうか、ちくわの天ぷらをおまけしてくれたがも嬉しかったです。
さて。
その、築地へ向かう途中にたつくってきた隅田川。ここは、佃大橋西詰。対岸に見える灯りが佃島。ビルとビルの間に三日月と金星。金星には三日月がよく似合います。
ビルに囲まれ、奇跡のように、映画のセットのように残る佃島の町並み。あの町並みに身を委ねると、えも言われぬ安らぎを感じることができます。
佃島は、隅田川の中洲。1590年、家康が、秀吉によって江戸に移封された際、摂津の佃村から漁師を連れて来て住まわせたことに始まる、とされる古い古い佃島。
北条攻めに勝利し、関東も制覇した秀吉。当時は箱根の向こうの田舎、広大な湿地帯と原野が広がる江戸に、家康を封じました。家康の家臣たちが激怒した、と言われます。こんな田舎を与えやがって、と。
しかし、偉大なる土木プランナー家康は、江戸と関東平野の、その土木プランによっては夥しい人間を養える土地に生まれ変わる可能性を喝破したのである、と、こないだからご紹介しゆう本に書いちゃありました。
で、まだ関ヶ原に勝利する10年前から、利根川の出口を東の銚子に変える事業、小名木川を行徳に抜く事業、そして佃島から漁民を連れてくる事業は、計画実施に移っちょったのでありました。
その新説によると、行徳まで小名木川を抜いたのは、塩の道を確保する、ということよりも、北の伊達氏などに備えた軍事的意味合いが大きかったのではないか、と述べております。そうでないと、あれほど急いで小名木川を抜く理由が見当たらない、と。で、佃島に連れてきた漁民は、水軍として使うためである、と。
う〜ん、水軍には無理があるような気もするが、こういった妄想を暴走させる姿勢は好きです。なにより、土木工学的視点から、歴史上の事象を検討していくのは、かなり合理的でありますね。
それはともかく佃島。
この写真の場所に、渡し船が正式に開通したのは正保2年(1645年)。当然、有料の渡船であった訳ですが、東京市の運営に移管し、昭和2年3月に無料となったそうです。どれっぱあの船が行き来しよったのか。昭和30年には、なんと一日70往復。これは便利。
しかし、佃大橋が昭和39年に開通して、佃島の渡船は、その300年の歴史に幕を閉じたのでありました。