国分川の水量〔3967〕2014/02/24
2014年2月24日(月)晴れ!
快晴。良いお天気の月曜日。
昨日、長宗我部元親さんの、岡豊、大高坂、浦戸という本拠城の変遷について妄想しました。妄想ついでに今朝も妄想。
ここは岡豊。眼下に流れる国分川の向こうに聳える山が岡豊山。長宗我部氏が、古くから本拠とした山で、ここをベースに、国親、元親親子の快進撃が始まり、四国をほぼ制覇するに至ったのはご承知の通り。
で、数年前、国分川の堤防工事の際、長宗我部時代の荷揚げ施設のようなものが出土した、という記事が新聞に載りました。そう。この城は、土佐の中原の重要な場所に位置し、四国の山中へ攻め込んだり四国の東部を攻略したりするのに絶好の場所にあります。その上、城山の下に港があって、物資や人員の輸送に非常に便利であったと思われます。
その岡豊を捨てて、何故、元親さんは湿地帯である大高坂山へと移ったのか。
色んな説がありますが、説得力があるのは、水軍重視説でしょうか。四国制覇をするまでは、長宗我部氏は陸戦を得意とする軍団で、海の領主ではありませんでした。それが、秀吉傘下になり、秀吉によって期待されたのは水軍。朝鮮出兵を控え、土佐の軍勢を、船も操れる軍団に変えていくことが期待されちょったと。そこで、海に近い大高坂に本拠を移し、そこに城下町を建設しょうとした、という考え方。
何故、岡豊ではダメだったのか。
それは、この風景を見たとき、なんとなく理解できた気になりました。そう。浅いのであります。
上に書いたように、国分川は、長宗我部氏にとって、輸送の大動脈。この川を浦戸湾と直結し、船団を確保するには、豊かな水量と広い場所が必要。
そして。その頃、国分川の水量に異変が生じ、大きな船が接岸できる深さが確保できんなったがかも知れません。
そうそう。現代は山が荒れ、取水量も多くなって水量が少ないけんど、戦国期にはもっと豊かであった、という考え方もあります。しかし。こっからちょっと遡った源流に、新改川があります。その川は、土佐でも有名な、水争いの舞台となった川。つまり、昔から貴重な貴重な水でありました。そこに、四国山地の穴内川からトンネルをぶち抜いて豊かな水を流し、水争いに終止符を打つ甫喜ヶ峰疎水を完成させたのは明治期。今のこの国分川の水には、甫喜ヶ峰疎水も混じっております。それでこの水量。甫喜ヶ峰疎水がなかったら、もっともっと少なかったと思われる国分川の水。
で、考察してみますに、水軍の充実を図らんといかんなってきたタイミングで、どうやら、国分川の水量も大きな船の発着が無理になってきた。ということで、浦戸湾の大高坂へと移転していったのでありましょうか。
しかし、水軍の本拠、ということであれば、浦戸の方がふさわしい。なかなか大高坂界隈の湿地帯の治水も大変で、本格的な城下町を建設するのは無理がある、と考え、浦戸城を本拠とすることになったがかも知れません。
こういった妄想遊びは実に楽しいですな。ともあれ、歴史を見るときに、その地形や気候、自然環境を考えると、実に想像が広がってきます。