白太夫神社、高視さんの不運〔3948〕2014/02/05
2014年2月5日(水)小雪
氷点下になるほどの冷え込みでもなく、安心しちょりましたら、先ほどから小雪。やっぱし冷やい一日になりそうです。北山は雪雲が覆います。四国山地は、冬になると雪が積もります。
昨日、菅原道真公嫡男、高視さんの不運について書きました。乳母が、八重の白梅を持って来よって、南国市立田まで来て病死。道真公の遺臣、松本白太夫さんが道真公の遺品を高視さんに届けようと高知市大津、雲門寺までやって来て病死。
今朝は、その、大津、雲門寺があった山の山裾、白太夫さんをお祀りする白太夫神社さんをお参りしてきました。左手が電車通り。電車通り沿いの鳥居をくぐり、この坂道をあがっていったところに鎮座。そっから右手へ、山を上がっていくと、白太夫さんの墓所と伝えられている場所があります。
さて。以前にも検証したことがありますが、もう一度。
太宰府で道真公が亡くなり、その遺品を、土佐権守に赴任中の嫡男、高視さんに届けるために79歳という高齢の遺臣、松本春彦(白太夫)さんが太宰府を出発しました。たぶん山陽道を東進。途中、船を使うたかも知れません。四国に渡り、冬、12月の四国山地を越えて土佐へやって来た、とされます。
さて。
当時の12月は旧暦。と、いうことは、現在の1月くらいということで、厳寒。上に書いた通り、四国山地には雪。平安期、官道として、現在の高知自動車道のルートに近い街道ができちょりました。笹ヶ峰を越える道。現在の県道5号線を、こないだ車で走ってみましたが、隧道のちょっと手前で雪で動けんなって引き返しました。街道は、その隧道のまだずっと上を通りますき、雪深い街道。そこを79歳の白太夫翁、歩いて通ってきたのでしょうか。それはコタイます。
そしてやって来た土佐。文献では、大津、雲門寺に偶然たどり着いた、となっちょりますが果たしてどうか。
遺品を手渡したい菅原高視さんは土佐権守。
ここで「権守」という官職について考えてみましょう。
「権」は、「仮」という意味を持ちます。平安期、正官職と別に、色んな意味合いで仮の官職「権官」を置きました。色んなケースがありますが、多いのは、官職としては高いが、名目上だけのことで、実際の権力は持たせなかったケース。菅原道真公が太宰府の権師に任命されたのが典型例で、政敵を失脚させるのに利用された「権官」。その際、土佐権守に任命された菅原高視さんも、同じ理由での「権官」赴任やった訳です。ですきに、実際の仕事はない。土佐の国府は、もちろん現在の南国市国分にありました。紀貫之さんが仕事した所。しかし、たぶん仕事も無いので、高視さんは。浦戸湾に面し、風光明媚な潮江に住んだと妄想できます。高見山の麓。
雪の四国山地を越えて、ようやく香長平野に下りて来た79歳の松本さん。さて。まずは国府へ行ったのではないでしょうか。土佐の土地勘なんぞある訳もなく、菅原高視さんに会うにはどこへ行けばよいのかわからない。で、取り敢えず国府へ行ったと妄想されます。
で、高視くんは、権守で仕事もないので、潮江というところでのったりまったり過ごしゆう、と言われたかも知れません。そこで、松本さんは、潮江へ向かうことにしました。
国分から潮江。当時の高知平野は浦戸湾の底ですき、陸路で行くとすれば、ぐるっと北から廻っていかんといかんし、最終的には船で渡る必要がある。そこで、当時の大きな港であった大津から潮江に船で行こうとしたでしょうか。
で、その大津にやって来て、船に乗る直前、宿泊した雲門寺で急死された、ということかも知れません。ご高齢で、太宰府からの長旅、特に雪の四国山地越えが、身体にことうたがでしょうか。
菅原高視さんは、白太夫さん持参の遺品も、乳母持参の八尾の白梅も、直接受け取ることはできませんでした。
高視さん。不運ではありましたが、今、高見山に、その名前が残ります。