「三匹の子豚」の次男〔3936〕2014/01/24
2014年1月24日(金)晴れ!
良いお天気の朝。
ここは夜明け前の常盤町。宝永町の南。うちの近所。
昨日、菜園場の居住者について書いた際、路地にも民家が密集、という話題に触れました。そう。江戸時代は、大きな道の他に、網の目のように路地、横丁が走り、下町を形成しちょりました。その道幅は、今考えるよりもずっとせんばい。
ここ、常盤町には、そんな風景を連想させるような路地が残ります。宝永町交差点から南へ、鏡川大橋の方に南下しよりますと、右手。幾筋か、路地の出口が見えます。写真はそのひとつ。
電灯は昔ながらの裸電球。路面は未舗装の砂利。路地の両側には民家やアパート。江戸時代には、これよりもっと狭い路地の両側に民家が密集しちょったと思われます。幕末に日本にやってきて、その風物、文明、文化を書き残した外国人たちの文章を読むと、その頃の日本人、実に工夫を凝らした、快適空間を目指す生活をしよったことがわかります。
江戸の下町でも、狭い狭い路地の両脇には鉢植えなどの植物がこれでもかと言うばあ並べられ、井戸端は社交場。そんな文化、文明。
そんな街の弱点はもちろん火災。江戸でも、高知の城下でも、ビッシリ大火に見舞われちょります。で、今でも街のあちこちに秋葉様が祀られちょったりします。
大火は、今、我々が考えるよりずっと身近なものでした。
ただ、当時の庶民、家財道具は少なく住居も木造の簡略なものが多い。火事で焼失することを想定しちゅうとまでは申しませんが、焼けてしもうても、失ったものは少ない場合が多かったにかありません。
同じく、幕末に日本にやって来た外国人の手記では、一様に、火事と、そこからの立ち直りに速さに驚いちょります。火事で一面焼け野原になってしまったのに、その夜には廃材で小屋掛けして家族が住み始め、翌朝には商売を再開している家(家は焼失しちゅうので、露店で)もある。焼け出された庶民たちは、意外に明るく過ごしている、という感じ。そして数日後には、もう、家が建ち並び始めちゅう。この復旧の速さ。
命さえ助かれば、家に対する執着があまりないのが江戸の庶民であるように見えたようです。もちろん借家が多かったということもあるでしょう。しかし、土佐の高知でも、下町が火事で焼けた後の復旧、復興は、意外に速かったかも知れません。木造は、燃えやすくとも、建てやすい。
ここで思い出すのが「三匹の子豚」の次男ですな。
長男は、ワラで家をつくってオオカミに吹き飛ばされ、食べられました。そして次男は木造の家を建てたもののやはり吹き飛ばされ、三男がレンガで作った家だけ無事残り、オオカミに復習する物語。その次男。木造の家。
日本では、材木が手に入りやすかったこともあり、定期的に立て替えられることを想定した木造が主流になりました。式年遷宮を見よったらわかりますな。形有る物は滅びる。そして再生し、いつまでも続いていく、という思想でしょうか。
密集した木造の民家。そんな下町は、適度に入れ替わり、新陳代謝していく変化に富んだ街やったがかも知れません。
三匹の子豚の次男は、日本に来たら良かったがです。下町の大工として、街にとけ込み、人気者になって過ごすことになったかも知れません。
裸電球の灯る路地で朝っぱらから何を妄想しゆうことやら。