お城を築く場所を決める理由〔3937〕2014/01/25
2014年1月25日(土)薄曇り
今朝は、家から、伊野の蘇鶴温泉コースをたつくりに行っちょりました。龍馬マラソンは来月。その影響でしょうか、川沿いを走るランナーも増えてきました。小生は出場する訳ではありませんが、たくさんの友人が参加するので、結構楽しみでありますな、龍馬マラソン。
家から鏡川沿いを遡上し、途中から電車通りに出て朝倉、伊野、波川とたつくります。本日の目的地のひとつがここ。波川玄蕃城趾。こないだ、同じように蘇鶴温泉へ走ってきた際、月田上神社さんのところから尾根伝いに行こうとして、鬱蒼とした薮に阻まれ断念した玄蕃城趾。今日は、波川駅から高知県立農業大学校の横を抜け、急勾配の車道を駆け上がって、ここ、玄蕃城趾にたどり着きました。てっぺんの詰の段のちょっと下まで、車で行けます。
この城山の標高は171m。山城。界隈に、もっと高い山もありますが、波川玄蕃はこの山を本拠としました。このてっぺんの詰の段に立ってみると、何故、ここに城を築いた理由が想像できます。
まず、仁淀川筋から上ってくるのに、そんなに遠くない。谷筋をどんどん駆け上がると、てっぺんまでは割合しゅっと。車道を駆け上がったら人間の足でも20分かかりません。仁淀川の水運が利用でき、しかも川が防御となって難攻不落。
この場所のもう一つの利点は、なんと言うても、その眺望。写真は、詰の段の周囲を取り囲む土塁の上から東の方向を眺めたもの。眼下に伊野。その向こうの山々の向こうに土佐の中原。お天気が良ければ、たぶん、岡豊山まで見渡せるのではないでしょうか。長宗我部氏の股肱の臣として、絶好の位置に城を築いた波川玄蕃頭清宗さん。ここに築城したのは天正初年(1573年頃)とされます。
波川玄蕃頭清宗の妻は、長宗我部元親の実の妹。そんな関係で、元親の躍進に貢献した波川玄蕃さん。しかし、天正8年、元親に謀反を企てた、という嫌疑をかけられ、阿波の海部で詰腹を切らされた、とされる波川玄蕃さん。真相は、今でも諸説紛々で、わかりません。
妻で、元親の妹は出家して養甫尼と名乗り、土佐七色紙の祖となった話はあまりにも有名。その舞台となった成山は、こっからしゅっとに見える仁淀川沿いの山の向こう。あまりにも近い。その、戦国の悲劇は、小説にもなって今に伝えられます。波川玄蕃の子孫の方と、昨夜も飲みよりました。
今日は、こないだ挫折した尾根道の薮漕ぎを、こちらの玄蕃城趾からチャレンジしてみました。しかし、今日も挫折。いや、行く手を阻む、背丈を超える鬱蒼としたシダ類を中心とした薮だけならなんとかなると思いましたがバラ系統の薮もはびこり、10m進むのに1分かかる、といった状況になってしもうたので、時間切れ断念。ちょっと悔しい。しかし、前回薮で断念した場所まではまだかなりの距離がありました。これ、明らかに最近誰か通った形跡はありません。今の季節でこれですき、夏は絶対無理。苅り払いながら進む、道具がいります。
仕方ないので引き返し、来た道を一気に駆け下りて波川駅。そっから蘇鶴温泉へ。到着したら丁度12時。温泉開館時間でした。そして一番風呂。お風呂から出るまで、誰っちゃあ入ってこんかったので、蘇鶴温泉独り占めを満喫した土曜のお昼でした。