ひょっとこカーブの謎〔3938〕2014/01/26
2014年1月26日(日)薄曇り
今日は日曜日。追手筋には日曜市。今日も大勢のお客さんで賑わいよりました。
この日曜市、県外の方は朝市と思うてやって来る方も多いですが、割合に珍しいとされる、終日運営の街路市。約500店舗、1.3km超の、色んなものを売りゆう街路市。
何度もご紹介してきましたが、ちくとおさらい。
この追手筋に日曜市が移ってきたのは戦後のこと。それまでは帯屋町で、日曜日ごとに開催されよった日曜市。帯屋町に移ってきたのは明治37年。そう。それまで開催されよった本町筋に電車が走ることになり、それに帯屋町側の商店街活性化のための誘致運動が重なって、移転しました。
帯屋町は、もちろん元々上級武士が住むエリアで、維新後は、ひと区画が広いこともあって、病院などの公的施設が並ぶエリアとなりました。高知市の繁華街は、もっと東、種崎町界隈が中心。帯屋町は病院街。そこに商店並び始め、少しづつ商店街みたいになり始めた頃、日曜市が開催されるようになって活性化策は成功したとされます。
帯屋町の前の本町筋も、藩政期にはもちろん武家屋敷街。位の高い武士の屋敷が並んじょりました。そこで、日曜日ごとに街路市が立つようになったのは明治9年。そう。太陽暦が官公庁で採用されるようになり、日曜日が休日、という習慣が日本に導入されて日曜市となったのでありました。
300年の歴史をもつ、と言われるのは、藩政期、お城下の各所で、曜日ではなくて日を決めた街路市が定期的に終日開かれよったことに由来します。現在の日曜市は、そのお城下の日切れ市の流れをくむ、ということで300年の歴史、と言われる訳です。まあ、ここまでは誰でもご存知の、日曜市の歴史。
今日の本題。
ここは、今日の追手筋。南半分に日曜市が見えます。グリーンロードと蓮池町通り電停の中間。この信号のある交差点の南西角にはひょっとこ寿司さん。高知県人が夜の街の店の場所を説明する際、頻繁に引き合いに出されるランドマーク、ひょっとこ。「ひょっとこのクを南へ入って1本目を左」てな言い回しをしますよね、高知県人。
このひょっとこ寿司のところで、追手筋が「へ」の字に曲がっちゅうがをご存知でしょうか。
写真をご覧ください。この交差点で「へ」の字に曲がっちょります。
藩政期の城下の絵図を見てみますと、上級武士が住むエリア「郭中」と、下級武士や庶民が住む上町、下町は明確に区分されちょります。東の下町との間も、堀と土塁で仕切られ、はっきりと分けられちょりました。この「へ」の字カーブは、その境目の痕跡であることは、メッソ知られちゃあせんかも知れません。
追手門を出て東へ進む道は、ここまでまっすぐ。で、郭中と下町の境目で少し右に折れ、こっから蓮池町までまっすぐ東進します。そんな町でした。高知の城下。
ひょっとこを南へ行って、帯屋町の手前の三叉路で左を見ると、道路が盛り上がっちゅう。以前にもご紹介しましたが、郭中と下町を隔てる堀に架かった土橋の痕跡。あの盛り上がりの下には、藩政期の土橋が埋まっちゅうと思われます。高知の城下の明確な痕跡。
そしてこのひょっとこカーブ。ここも、藩政期の、郭中と下町の境目の痕跡と言えるかも知れません。
なぜ、ここで曲がっちゅうのか。まあ、鏡川の流路が潮江橋の辺りで南に曲がっちゅうので、その関係で、鏡川と江の口川の真ん中を通る街道としてはちょっと右に曲がらざるを得んかった、というのが真相でしょうか。しかし、高知城の防衛計画のため、という興味深い説もあります。
藩政期、馬蹄形の池に囲まれた中島町は、高知城防衛計画のための出城であった、という奇抜な発想の新説を土佐史談に書かれた前田さん。その説では、このカーブは、東から高知城へ攻め込んできた軍勢から、郭中、お城の様子が見えないようにするためのものではないか、となっちょります。わざとここで曲げた、と。なるほど。なかなか考えます。
ここを私はひょっとこカーブと呼びます。ひょっとこカーブの真相やいかに。