藩政期、庶民の住宅地図〔3935〕2014/01/23
2014年1月23日(木)晴れ!
なかなか冷やい朝。ここは大鋸屋橋の上。朝4時過ぎ、西の方角を撮影しました。今、夜明け前の西空には木星が輝きよります。その木星を二等辺三角形の頂点にして、木星の上方にふたご座のカストルとポルックスが仲良く並んじゅうがが可愛いですな。この写真でも見ることができます。
左手の丸い巨大な建物が、高知市文化プラザかるぽーと。正面に、この堀川に架かる橋のように見える部分。今は広場になってしまい、橋ではなくなりました。かるぽーとの所にあったのは高知市の中央卸売市場。弘化台に移転するまで、ここにありました。
その中央卸売市場がここにできたのは昭和5年。京都に次いで、全国でも2番目にできた中央卸売市場。で、その開設の際に、その向こうの縦堀と横堀の交差点、川の交差点の東側に菜園場橋が架けられ、翌年、南側に納屋堀橋が架かって、それまであった木屋橋、幡多倉橋と合わせて四ツ橋と呼ばれるようになった、というのは何度書いてきたことでしょう。
つまり、我々より上の世代が覚えちゅう四ツ橋という名称も、昭和6年以降に始まったもの、ということ。
現在の堀川、桜のきれいな堀川と、新堀小学校(現はりまやばし小学校)の東を南北に通る横堀が交差して川の交差点になったのも、藩政期後期。藩政期前期は、この写真の向こうで北と南の土地はつながっちょりました。この目の前の川の部分が川ではなかった訳ですな。
この右手は菜園場町。17世紀中頃、藩主の菜園があった場所が町家となって、菜園場町と呼ばれるようになった、とされます。この東の農人町の枝町。
寛政四年(1792年)の絵図に、当時の詳細な住宅地図があります。郭中の、武家の住宅図は藩政期を通じていっぱいありますが、上町、下町の住宅地図が貴重。すごい絵図。界隈すべての住宅、施設が書き込まれちょりますので、それを見てみます。どんなヒトが住みよったのか。
この右手の、堀川に面したところ。手前から順番に。
田村屋源五右衛門 大工惣七 鍛冶平吉 坂本屋長六 棟梁荘之丞 荒物屋平兵衛 大工専六 鍛冶長吉 と続きます。屋号のヒトの職業は不明ですけんど、概ね、大工さんとか鍛冶屋さんとかの職人さんであることはわかりますな。表通りだけではなく、路地に入っていくと、まあ、民家が密集。職人さんも住んじょりますし、魚屋さん、髪結いなどなど。当時の生活の息吹が感じられる住宅地図。
昔の住宅地図を眺めると、個人事業主だらけであることは歴然。藩政期、大企業が多くの従業員を使う、てなことはなく、基本的に、個人事業の集まったものが、その地方の経済やった訳です。もちろん豪商はおりましたが、個人事業主の数は圧倒的。
近代になり、経済システムが変化してきても、例えば商店街などは個人事業の集まりで存在し続けてきました。しかし、この数十年。巨大な企業への集中化が進み、また、大都市への集中が進んで、街の商店街は寂れ、個人事業のお店も減ってきた気がします。経済構造の圧倒的変化。巨大ショッピングセンターには全国チェーンの安いお店。それはそれで便利で安く、お客さんを集めるのは時代の趨勢かも知れません。
しかしそこには、古典落語に出てくるような、人々の生活の息吹や、人間そのものの面白い個性を感じることはない。
大昔の住宅地図を眺めながら、そんな、ちょっと寂しい感慨にふける冬の朝。