森赳中将のお墓〔3923〕2014/01/11
2014年1月11日(土)晴れ
良いお天気。
こないだうち、筆山を何度かたつくるも、終戦時の近衛師団長、森赳中将の墓所をよう探し当てんかった、ということを書きました。その後、土佐史談会の島崎さんが、発見した、という連絡を下さいましたので、昨日の夕刻、早速行ってみましたら、ありました。ちゃんと。
そのすぐ手前の墓所までは何度もたつくっちゅうのに、森中将の墓所だけは、どういう訳かたどりつけちょらんかった訳です。実に不思議なことでした。
で、今朝、今一度墓所にお参りし、高見山から鷲尾山と走りに行って来まして、撮影も済ませてきました。お墓そのものの写真というのも、ちょっとアレなので、森家の墓所がある石垣の写真にしました。この石垣の上に、森中将は眠っておられます。
小さめ、控えめな墓石正面には「森赳墓」と刻まれ、側面に「昭和二十年八月十五日 近衛師団長トシテ殉職ス 享年五十二歳」とありました。
昭和20年8月15日の、その事件を振り返ってみます。
8月6日、広島に原爆投下、8月9日、ソ連の参戦、そして長崎への原爆投下。陸軍が強行に反対する中、政府は紛糾し、皇居、天皇臨席の御前会議で結論が出される事になりました。鈴木貫太郎首相の手腕に、陸軍がやられた、という感じ。で、最後は天皇陛下の決断となり、日付が変わった8月10日未明、ポツダム宣言受諾が決まりました。
しかし、subjeck toをどう判断するかなどなど、条件付けの問題で紛糾し、もつれにもつれました。そして8月14日、またも御前会議で、正式に、無条件降伏が決定されました。
そこで、天皇陛下が、国民の前で直接話をする、ということになり、あの、玉音放送が録音されたのが8月14日夜。文面などについて、事務方を含め、すさまじい緊張のなかで努力が続けられました。
録音は皇居で行われ、その録音盤は、書記官が保管する事になり、適当な箱に入れ、雑書類に紛れ込ませてわからんようにしたのが徳川侍従。
放送は、15日の正午と決定。
軍部の幹部たちには、14日のうちに無条件降伏の旨が伝えられ、粛々と命令に従うように指示が出されます。しかし、特に陸軍を中心に、クーデターを起こして戦争を継続すべき、という考えの士官が納得しません。指導者層にも、流れを見ながら、場合によっては、と考えちょった輩がおりました。
そんな空気の中、若手将校が中心となってクーデターが始まりました。いくつかの事件がありましたが、一番有名なのが宮城事件。
陸軍省軍務課員、畑中少佐を中心に計画が練られました。近衛師団長を口説き、天皇を巻き込んで近衛師団が決起。それによって東部軍が動き、陸軍の指導部層を中心に政権を奪取、戦争を継続する、というもの。近衛師団を口説きながら、玉音放送の録音盤を奪い、放送を中止させることも考えておりました。
そして、14日深夜、クーデターの主要人物が森赳近衛師団長の部屋へ行き、考えを伝えます。
ここで森中将は、静かに拒否。若者たちを説得しようとしたそうです。そこで、畑中少佐がピストルで森中将を撃ち、仲間の上原大尉が斬りつけて殺害したのでありました。
そして、徹底抗戦の内容の師団長命令を偽造、近衛師団を動かした訳です。森中将の印鑑を使って。何も知らない近衛師団は、偽命令に従い、皇居を占領。居合わせた重臣を監禁しました。そして録音盤を探します。
侍従たちは、天皇にこのことが影響しないよう、とにかく頑張ります。天皇は、何も知らず就寝。
結局、念には念を入れておいた録音盤の保管場所はばれずに、発見されませんでした。
偽命令の威力で、クーデターは順調に進みゆうかに見えました。
しかし、皇居からなんとか外部に連絡が取れ始め、また、これはおかしい、と、管轄する東部軍が動き、未明、東部軍がやってきて制圧、重臣たちは解放されたのでありました。これが宮城事件。
「愛国」を振りかざすこういった輩が、一番始末に悪く、国に害悪を及ぼす、という例。いつの世も同じようなことが起こるのですな。
もし、森中将が毅然とした態度を取らなかったら。
陸軍のクーデターが成功したとは思いませんが、8月15日に戦争は終わらなかったかも知れない。それによって、もっともっと、悲惨な犠牲者が増えたかも知れない。それを阻止したのは、身体を張ってクーデターに対峙した森赳近衛師団長の気概であったかも知れません。
そんな人物のお墓。周囲のお墓に比べても、地味に、小さいお墓。これが、実に、森赳という人物を表現しているようで、感動しました。
偉そうな人物、威勢の良い言葉で薄い言葉を吐く人物より、重要な仕事を成し遂げるのは、こういった人物であると確信します。