土讃本線の旅〔3922〕2014/01/10
2014年1月10日(金)
昨日のマニアな鉄道ネタに引き続き、今朝も鉄道。いや、今朝は、関西方面出張につき、朝5時の特急しまんとに乗って移動中なのであります。始発の特急は高松行きのしまんと。坂出駅でマリンライナーに乗り換えて岡山、そして新幹線。
で、西日本はこの冬一番の寒気がやってきゆうとか。昨日の午後から冷え始めたので、今朝はこじゃんと冷やいろうと思いよったら、高知市内の朝は、そうでもありませんでした。しかし、四国山中は雪。高知自動車道は、大豊と川之江の間が雪で通行止めになっちょります。
以前にも書いたことがありますが、小生、小学生の頃、夏休みや春休みのたんびに、阿波池田のもうちょっと向こう、当時は三好郡三好町昼間と言いよった町の親戚んちに、長期間泊まりに行きよりました。ちょっと年上の従兄弟がおり、大自然にあふれ、遊ぶがに不自由せんかったきですね。
その従兄弟も汽車が好きで、そんな影響もあって、汽車が好きになった少年でした。
その親戚んちの最寄り駅は、阿波池田の2つ向こうの箸蔵駅。高知から鈍行に乗って行ったもんです。当時の急行は、昨日も書いたようにあしずりか土佐。高知高松間が急行土佐で、中村からのやつがあしずりでした。
しかし、急行より鈍行の方が好きでした。長時間、ゆっくりと楽しめるき。気動車の車両もありましたが、好きやったのは、ヂーゼル機関車が引っ張るやつ。先頭をヂーゼル機関車が引っ張り、こげ茶色の客車が何両も繋がった汽車。そう。当時の鈍行は、鈍行でも何両もつないじょりました。
引っ張られる客車には動力が付いちょりませんので、実に静か。駅に停車したりしますと、シーン、とします。あの感覚がたまりません。冬は寒かったですね。
座席は木製の、背もたれ直角のボックスシート。あの、木の感覚が懐かしい。
車内の灯りは裸電球で、オレンジ色の灯りが薄暗く車内を照らし、今となってはセピア色。
デッキと室内の間の引き戸はありますが、デッキと外の間には扉もなかった記憶があります。ですきに、汽車が動き始めてから飛び乗ったりすることもありました。
今でも思い出しますが、大雪で、どっかの山中の駅でしばらく停まったことがありました。一緒に乗っちょった従兄弟と一緒に、汽車から降りて雪で遊んだのが昨日のことのよう。
汽車の最後尾、連結部分は、夏場はそのまんま開いちょりました。最後尾のデッキに出ると、後ろは吹き抜けになって外に直結。
夏場、その吹き抜けのところから過ぎ去って行く景色を飽きもせずに眺めたことを思い出します。
当時の客車のデッキは、完全に外とつながった空間でした。そう、もちろんトイレも。走行中にトイレの便器から下を見ると、地面が見えよったのは当然。ですきに、駅とかに停車中に用を足すのは厳禁でした。「走りゆう間にせんといかん」と言われたもんですよね。走行中だと、線路のところに広く散布されて、あんましわからんなる、という訳だ。いつの頃からそうではなくなったのでしょうか。
今もよく、テレビなどで「旅」という言葉が使われますが、なんとなくピンと来ません。小生にとって「旅」とは、あの頃のような、ゆっくりした時間をゆっくりした移動空間で過ごすものでした。新幹線や特急に乗ってしまうのは、「旅」とはちょっと違う。ただし、寝台列車は、特急でも「旅」ですね。そんな感覚。
新幹線でも、「旅」の感覚が味わえる唯一の方法がありました。それは食堂車。食堂車で過ごす時間は、まるで映画のようで、「旅」の気分を味わえました。社会人になって、食堂車付きの新幹線に乗ると、利用したもんです。
当時の、土讃線での車内放送の始まる前の音楽。今でも覚えちょりますが、
ソファミソミ〜レドミソ〜ドシレファソシレド〜、という、よくあるオンフォメーションメロディのオルゴール。これが、途中の「シレファソシレ」の途中でブツっと切れ、車掌さんのアナウンスが始まるがです。いつも、最後までいかんがが不思議でした。そんな記憶、ありませんか?
夜明け前の汽車に乗っちょりますと、こんなマニアな記憶がどんどんと蘇り、タイムスリップしてしまいます。車内が、こんなに明るくなく、裸電球やったら良かったのに。
と、思いよったら汽車は阿波池田駅へ。
阿波池田駅と言えば、以前に書きましたが、ホームで売りよった祖谷そば。つなぎが皆無の、太くて短い、しかも太さはまちまちの、不思議な味のする祖谷そば。汽車に持ち込んで食べました。不思議な食べ物でした。