赤野橋〔3907〕2013/12/26
2013年12月26日(木)小雨
昨夜は安芸。県東部の安芸市。JAとさ安芸酪農部恒例の忘年会に出席させてもろうちょりました。安芸の場合は、夜の忘年会。酪農家さんの宴会は、お昼にやることが多いですけんど、高知市酪農組合と安芸は夜。ヘルパーさんを頼んだり、奥さんに搾ってもろうたりしゆうので、皆さん安心して遅うまでグッスリやります。
で、毎年一次会は白川さん。ここの牛タタキのお寿司は絶品で、これを食べるがが楽しみながですね。おいしゅうございました。そしてお酒。二次会も、毎年同じお店。飲みました飲みました。昨年、栃煌山が同級生の若い衆たちと飲みにきちょったがを思い出します。さすが、安芸市。
騒動しながら飲んで、ホテルタマイさんにたどり着いたのは午前0時30分。ふう。よくも飲んだり。朝は走るつもりもしちょりましたが、さすがに断念。車で、会社までモンて来ました。
写真は、帰社する途中の赤野。安芸市赤野。赤野川の河口の平野に広がる集落。元々は、この東の八流から手結の東までが和食郷。わじき。ほとんど、今は芸西村ですが、赤野だけが安芸市になったのには水利権とか色々複雑な事情があるようです。
戦国期、和食郷を支配しちょったのは和食氏。しかし、安芸氏が勢力を伸ばしてきて、安芸氏支配下に入りました。そして、長宗我部氏の傘下に。
この写真は、赤野川に架かる赤野橋。赤野橋という橋は、3本ありますね。この、旧道の赤野橋、現在の国道55号線の赤野橋、それに、旧土電安芸線の電車の鉄橋、赤野橋。旧電車の鉄橋は、今はサイクリングロードの橋になっちょります。
で、この、旧道の赤野橋。欄干の表示を見てみると、昭和10年架橋となっちょりました。なんとお洒落な橋でしょう。すごいですね。迂闊にも今まで気付きませんでした。
この橋脚のデザインのモダンなこと。そしてリグった欄干。戦前の公共建築物には、実に、デザインを凝ったものがあります。この橋もその一つでしょう。
昭和10年と言えば、世の中がかなりキナ臭くなってきた時期。質素が奨励され、軍国主義が跋扈し始めた時代ですが、そんな時代でも、こんなデザインの橋を架ける訳ですき、往時の役人の心意気を感じてしまいます。
今の国道の橋は、昭和42年架橋となっちょりました。小生が6歳のとき。
そうか。小生の家の墓所は、田野にあります。安芸の東。お墓参りには、高知市内の家から車で行きよります。子供の頃から。
当然、父親が運転する車に乗って行く訳ですが、昔はうんと時間が掛かりよりました。未舗装部分も多く、国道は集落の中を通り抜けていくので、すれ違いでもあろうものならなかなか時間がかかります。たぶん、高知市内から田野まで3〜4時間はかかりよったように記憶しちょります。工事とかに引っかかったら、もっと。小学生の頃、徐々に道路が整備され、集落の中を通り抜けない道路がつくられていきました。新しい赤野橋が昭和42年架橋ということは、小生が小学校に上がる前は、この写真の橋を車で渡って田野へ行き来しよった訳です。こんなモダンな橋を渡りよったがですな。もちろん覚えちゅうはずもないですが。
最近、安田川に架かっちょった旧道の橋は撤去されました。考えてみれば、あれもお洒落な橋でした。この西、芸西かっぱ市の西の、和食川に架かる旧道の橋も、なかなかのデザイン。そんな橋も、古くなり、強度の問題などで撤去されることも増えてきそうです。
願わくば、公共の構築物のデザインに対する考え方を、昔のものを参考に、キチンとしていって欲しいと思うた赤野の朝でした。