土佐 五藤家〔390〕2004/05/10
2004年5月10日(月)曇り
今、高知県地方曇り空ですが、これから回復に向かうとの予報です。今朝はお城の下をたつくりました。
写真の黒い立派な門構え、このお家、五藤さんのお家です。もちろん現在も五藤さんが住んでいらっしゃいます。高知城の南、お堀に沿った場所にございますね。
五藤氏は、戦国時代、山内一豊の仕えておりました。現在判明しているなかでは一番古い家来でございます。五藤為浄(吉兵衛)が一豊の家臣として戦国を生き抜く様は、司馬遼太郎の「功名ケ辻」という小説に詳しく書かれちょります。
五藤為浄は亀山城攻めの際に戦死しますが、その弟為重が、一豊土佐入国の際に、土佐東部の安芸(現在は安芸市、阪神キャンプで有名ですね)近辺の城付き代官に任命されました。藩政初期には家老ではなかったのですが、徐々に力を付け、17世紀後半にはついに家老職に取り立てられます。安芸の旧城下町である土居を支配しましたので、土居付き家老という訳ですね。そして幕末まで土佐藩の要職を務めるとともに安芸での安定した統治を行います。
現在、その安芸の土居には資料館が建てられちょりまして、五藤氏の治世を偲ぶことができます。ここの展示物で有名なのは、山内一豊が敵の矢を顔に受けて万事休すになった際に五藤吉兵衛が「ごめん!」と言いながら草履で一豊の顔を踏みつけ、一豊の顔から抜いたという鏃(やじり)でしょうか。このお陰で一豊は一命を取り留めたと言います。この功績で五藤氏は山内家にとって無くてはならない存在となったそうで、この鏃は五藤家の家宝となっているのだそうです。
また、ここには写真の五藤家の屋敷全体の模型がございます。南北はこの門から電車通りまで、東西も同じくらいに広い広大な屋敷だったことがわかります。
五藤家の子孫達は、もちろん高知でも活躍しよりますし、プラネタリウムや天体望遠鏡で有名な五藤光学も、その一族によって作られた会社でございます。。