夜明け前の深淵神社〔3884〕2013/12/03
2013年12月3日(火)良いお天気
今朝も良いお天気。空には星が溢れる冬の朝。ここは野市、深淵。
野中兼山さんが野市の原っぱを沃野に変える以前から、物部川沿いに存立した、古い古い村、深淵。鎌倉幕府が始まると同時に中原氏(香宗我部氏)が地頭となりました。それは、戦後末期まで続きます。
土佐の東部と中央部を結ぶ幹線路も、深淵で、物部川を渡りよりました。
その深淵に鎮座まします、深淵神社さん。ご祭神は、深淵水夜禮花命さん。ふかぶちみずやればなのみことさん。スサノオノミコトとクシナダヒメとの間に生まれた八島士奴美神の子、布波能母遅久奴須奴神の子が、深淵水夜禮花命さん。その孫が大国主神という話もありますが、まあ、かなりややこしいので覚えるのは大変。
とにかく、古い、由緒あるお宮さんであることはわかります。延喜式内社。
延喜式当時は、元原部島にあったにかありません。江戸時代になり、寛文年間に洪水で流失、十善寺に移ったということ。その頃は、深淵権現と呼ばれ、広く親しまれよった権現様。
神社境内の説明板によりますれば、明治23年に、同じ十善寺の現在地に遷座してきたとなっちょります。ですきに、社殿は、比較的新しゅう見えます。が、この写真にも写っちゅう燈籠は文政年間のもので、明治23年に、一緒に引っ越して来たものと思われます。
ところで、ニッポンの神社には、いくつもの神様が合祀されちゅう場合が多いですよね。色んないきさつがありますけんど、一番影響が大きかったがは、明治期に行われた合祀政策。これは、ひどい政策でした。
日本の神道の系譜を国家神道につながるものに統一しょうとした一環。名目は、増え過ぎたお宮さんを整理し、規模を大きくしてキチンと存続できるようにしていく、という、なにやら現在の農地政策みたいなお題目やった訳ですが、実態はかなりキナ臭く、習俗、民俗を破壊するものであったような気がします。
日本人の習性で、権力迎合的な役人がおった県では、すごい勢いで合祀が進んだそうです。三重とか愛媛とか。結局、かの南方熊楠さんなどの反対で、急進的な合祀政策は取りやめ。まあ、バカな発想をする役人が権力を持つと、ろくなことにはならないという典型例ですな。
一見、合理的で近代的に見え、反対しづらい政策。しかし、その奥にある本当に大切なものを破壊していくことに気付きにくい。そんなこと、いっぱいありますよね。まっこと。
破壊してしもうたら、もう、同じように復することは不可能。似たものに戻すのにも、とてつもない労力がかかる。目先の見た目合理性と、ホントに大切なものは何か、ということと比べると、大きさが違い過ぎて悲しゅうなってきます。高知市の江ノ口川が代表的な例。
それはともかく。深淵神社さんからは、三宝山が美しゅうに見えます。もうちょっとしよったら、三宝山の向こうが朝日で彩られ、それはそれは美しい野市の風景。合祀を拒否した、小さなお宮さんがあちこちに鎮座まします、高知の風景は、先人の努力と思いがつまった風景でもあります。