前浜砲台跡と大原さん〔3867〕2013/11/16
2013年11月16日(土)晴れ!
良いお天気。昨夜は久々に高知市繁華街、55番街でグッスリ飲りよりました。エイですね〜、やっぱし。路地の飲み屋さん街というのは、やはり、なんとなく猥雑感が溢れて良いものです。高知の街は、それほど起伏がない、河口扇状地に形成されちゅうので、繁華街の立地に地形はめっそ関係しちょりません。柳町、55番街も、藩政期は武士の居住エリア。
こないだ、山手線1周RUNをやったときに書きましたが、東京は違います。
江戸の街は、実に考えられてつくられちょります。台地の上などは広壮な庭を持つ武家屋敷で、台地と台地の間の谷間、湿地帯に庶民の町。そんな谷間の庶民の町に、猥雑な繁華街が形成されたのは、自然のなりゆきでしょうか。
走りよって、谷底であることを実感したのは鴬谷、大塚、高田馬場、大塚から歌舞伎町界隈、渋谷、そして五反田。見事。高台の上には、目白駅前に学習院、恵比寿ガーデンプレイスなど。距離的に近接しちょっても、そこが高台の上か谷間かで、全然違う街になっちゅうがが面白い、そんな東京。
話は全然かわります。
ここは南国市前浜。海岸に一番近い道路沿い。ここに、「前浜砲台跡」があります。説明板が立っちょりますので、転載しますね。以下転載。
前浜砲台跡
嘉永六年(1853年)アメリカの軍艦四隻が浦賀に来航すると幕府は色を失い、諸藩に対して海防を厳重にするように命じた。そのため土佐藩でも前浜その他の海岸に砲台を築くようになった。
大原里勝は下田村の郷士であったが、前浜砲台係、海防小頭を命ぜられて砲台の築構に従事、ホイッスル砲数門をもつ台場ができあがった。
維新後、大砲その他は掃い下げられたが、台座だけは藩政の遺跡として保存されることになった。
南国市指定の史跡である。
以上転載。
そう。ここに、太平洋に向かって、砲台が築かれちょったのでありました。結局、使うことはなかった砲台。ホイッスル砲とは、日本語で書けば榴弾砲。つまり、火薬が詰められちょって、着弾時に破裂、それによって敵を殺傷する、というもの。台座に搭載、移動可能、となっちょります。なるほど。
有名な逸話としては、ホイッスル砲、最初はペリーが持ってきたもので、それを幕府が貰い受け、それを韮山代官、有名な江川太郎左衛門さんが研究、模倣し、1年後には国産で完成させた、というのがあります。幕末日本。なかなか優秀でありました。
さて。この説明板に出てくるのは下田村郷士、大原里勝さん。
高知県人名事典には載っちょりません。が、明治3年前浜村生まれの教育者、大原里靖さんという人物が掲載されちょりました。海南学校から一高、東京帝大を卒業し、後には高知県立二中、その後一中の校長まで務めた人物。これは優秀。後に、東京日々新聞の記者になったりもしちょります。
前浜出身で、名前が似いちゅうので、一族と思われます。
界隈では、優秀な人物を輩出するがで有名な一族やったがかも知れません。