天津神、国津神、山の神、海の神、田の神〔3866〕2013/11/15
2013年11月15日(金)雨
昨夜、ちくとヌクいと思いよりましたら、雨でした。静かな雨が降る高知の朝。
ここは野市、上岡八幡宮さん。鎮守の森は、雨によって一層神々しく、マイナスイオンたっぷりの素敵な空間になっちょります。今日は11月15日。
11月15日といいますと、龍馬さんの誕生日であって命日。まあ、ホントは旧暦ですき、イメージはちょっと違います。暗殺された慶応三年十一月十五日は、西暦で言えば1867年12月10日。今よりもうちょっと冷やい時期。そんな時期なので、シャモ鍋をつつこうと考えた訳ですな。
龍馬さんが生まれたのは天保六年。1836年。
この、いつもお参りする野市、上岡八幡宮さんには、不思議な事に天保の元号が見当たりません。天保というのは十五年までありますき、藩政期後期の中では最長の部類。藩政期全体を通じても、寛永、享保、元禄、文化に次ぐ、長い期間をもつ年号。
この写真の石段は、文化十四年のご寄進。1817年。参道入り口の燈籠に、文化九年、つまり1812年の年号が刻まれ、文化という年号は、この森に存在します。
その次はというと、たぶん、弘化年間。狛犬の台座に弘化の文字が見えますし、参道の真ん中にある供台には弘化四年の銘。1847年。
文化と天保の間に文政年間がありまして、これも結構長いのでありますが、この鎮守の森には存在せんにかありません。
天保と文政。藩政期でも、かなり存在感のある年号で、各所のお宮さんとかには、かなり頻出する年号。ここ上岡で、その30年間が空白というのは、ちょっと不思議な感じもします。本当は、もっとたくさん、燈籠とかがあったがかも知れません。200年の歳月で、燈籠1対と、この石段だけ残ったがでしょうか。
以前にも書きましたが、この石段、かなりでこぼこ。手で切り出した感が満載。同じ寸法の直方体の石を並べて石段にしちゅうがですが、それぞれの直方体は、いかにも手で、鑿を使って成形した、というもの。
これは、ひょっとしたら、専門の石工さんに頼んだものではなく、200年前、この八幡様を尊崇する氏子さんたちが、自分達で一生懸命切り出した石ながかも知れん、と、思いました。そうであるならば、毎朝足で踏んづける石も、地域の皆さんの想いが込められた石ということで、疎かにはできません。
今年、伊勢神宮の式年遷宮で盛り上がっちょります。それはそれ。国家神道は国家神道。天津神は天津神。出雲さんも、遷宮で盛り上がります。それはそれ。国津神は国津神。日本という国家が成立するに当って、宗教が大切な役割を果たした、その痕跡でもある、天津神と国津神。
そういった神の思想が生まれてくる背景にあったのは、大自然への畏れ、敬い。それは、そういった大きな宗教にならずとも、人々の身近にいつも存在し、時に暴れ、時に怒り、そしてやさしく包み育んできた神。そこらかしこに。
原始的アニミズムであって宗教ではない、という宗教観もあるでしょうが、それもそれ。
こないだ、三谷の、山の神のことを書きました。今は大山祇神社、などということになっちょりますが、もちろん後付け。山の神は山の神で、風の神は風の神で、海の神は海の神で、田んぼの神は田んぼの神。
そして、何神社であれ大明神であれ神仏習合であれ、地域の紐帯、シンボルとして氏神様、産土神が存在し、いつの時代も、我々とともにありました。