無人島長平の気分で〔3860〕2013/11/09
2013年11月9日(土)曇り
絶好のRUN日和。これっぱあが一番走りよいですな、まこと。
昨夜、手結の、海辺の果樹園さんで、宴会がありました。時間がなかったので、会社から車で行きました。飲まずにはいられない性分でありまして、結局、車はホテル海辺の果樹園さんの駐車場に置いて帰ることに。
そんな訳で、今朝は、車を取りに、手結まで走ってきたのであります。心地良かった〜。
国道を走ったち面白うないので、海岸方面から空港。空港では、高知龍馬空港という名称になってから10周年記念の、イベントをやりよりました。偶然通りかかったのですが、つい、うっかり、香南市のニラ塩やきそばというがを食べてしまいました。まだ、13kmくらい走らんといかんのに・・
まあ、仕方無い。おいしゅうございました。
あと、南国市の、ごめんシャモがスキヤキ!という、こないだ、とある全国大会で2位になったという、どうしても食べてみたいがのブースもありましたが、まだ仕込み中やったので、車を取って帰る際に食べることにして、再出発。
物部川河口の橋を渡り、旧吉川村から旧赤岡町の、できるだけ海沿いの道を走り、そして、ここ。旧香我美町岸本。
ここには、この、無人島長平さんのFRP製の像があります。以前にもご紹介しました。
ジョン万次郎さんは、漁に出ちょって時化にあい、鳥島に漂着。ホイットフィールド船長に助けられるまでは、5ヶ月。仲間も居ました。
岸本浦の長平さん(23歳くらい)は、万次郎よりも半世紀以上前の天明5年、奈半利へ飢饉の救援米を運んだ帰りに大時化に見舞われて漂流、万次郎と同じ鳥島に漂着しました。一緒に漂着した他の3人は相次いで亡くなり、漂着1年7ヶ月後に、長平ひとりになってしまいました。
無人島で、仲間が居るのと居らんのとでは、とてつもなく違うがやないでしょうか。長平が土佐のロビンソンクルーソーと言われる所以。
無人島での一人暮らしを3年。3年目に、大阪の船、そしてその2年後に薩摩の船が漂着して、10人以上になったのは、長平にとっては僥倖やったかも知れません。
共同生活をする中で、漂着した材木などを使い、船を建造。
長平漂着12年目に、北へ向かい出航、青ヶ島を経て八丈島にたどり着き、助かったのでありました。
助かったのは、ひとえに、鳥島という島の名称の由来にもなった、アホウドリの大群。ヒトを恐れずに寄ってくるアホウドリが大量に居たため、それを食料にすることができた訳です。
12年の島での生活。長平は、常に、中心人物として働いたとされます。
土佐へモンてきたのが寛政10年1月19日。丁度、家では、長平の十三回忌の法要をやりよった、という話もあります。こりゃ、ビックリするやら嬉しいやら、やったでしょうね〜。
その後、長平さん、幸せに暮らしたということです。
写真の左端の碑は、昭和2年に岸本の青年団が建立したもの。その際、埋もれちょったお墓も、キレイにしたそうです。国道沿いにありましたが、平成10年に、土佐くろしお鉄道香我美駅の南西の広場に移設されました。その際、この、FRP製の像もつくられたがにかありません。
偉大なる精神力と生活能力を持つ、野村長平さん、無人島長平さんの気分になって、撮影してみました。
こっからひたすら東へ、サイクリングロードを走って、手結の海辺の果樹園さんへ。で、車に乗って、今一度空港。そう。ごめんシャモがスキヤキ!を食べんといかん。ビールが飲めんので、途中でノンアルコールビールまで購入して、行きました。完売寸前。食べれて良かった。おいしゅうございました!