伊都多神社さんの天保14年〔3856〕2013/11/05
2013年11月5日(火)晴れちょります
今日は高知。昨日の夕方モンて来ました。やっぱし高知はクツロぎます。終電まで混雑する、あの都会の電車生活は、もう、小生には無理かも知れません。
ここは南国市前浜。伊都多神社さん。旧郷社。つまり、古くから、前浜界隈の皆さんの大切なお宮さんであり続けてきました。御祭神は不明、とされます。
面白いですよね。
日本には八百万の神様がおりまして、それこそ、すべてのものに神様が宿り、大自然の素晴らしさ、恐ろしさを代弁してくれます。で、小さな祠から大きな神社まで、それぞれに由緒があって、それぞれに神様がお祀りされちょります。しかし、あちこちに、御祭神が不明、という神社もございます。
こういった話は、海外の一神教の世界で暮らす皆さんには、非常にわかりづらいがやないでしょうか。お参りし、祈るための神聖な場所はあるのに、そこの、祈るべき主が不明。では、みんな、誰に祈りをささげておるのかわからんではないか!という訳です。
が、日本では、別にかまんのでありますね。そもそも、オオカタの皆さんは、神社へ行って、その御祭神が誰であるか、などと考えもってお参りしやあしません。そこに鎮座まします神様が何の神様であれ、神様なので尊崇し、恐れ敬い、お願いをする。そういう風土、文化、民俗。
この、参道から南を見ると、緩やかな斜面が下っていって、海岸通りの向こうは太平洋。海が良く見える神社。前浜のメイン集落は、この前の道、つまり砂丘の尾根部分を東西にはしる道沿いに展開します。一番海抜が高い部分。その中でも、ここ、伊都多神社さんは、最も高いところに位置します。それでも12mばあですき、南国市の津波最悪想定16mよりは随分低い。つまり、それっぱあの規模の大津波がくると、前浜はすべて流されてしまうことになります。
今、この伊都多さんの広い境内に、津波避難タワーが建設されよりました。
さて。写真手前の両側に、何やら丸い石のオブジェ。その形状から見て、たぶん、恐らく、鳥居の脚の部分やったと思われます。その石に刻まれちゅう年号を、苔を削り取って読み取ってみました。天保十四年癸卯八月十六日と読めます。なるほど。1843年。幕末前夜。そろそろ幕末の激動の予兆が現れ始めちょった時代。
伊都多神社さんで天保年間と言えば、庄屋同盟の発端となった事件が有名。
天保8年(1837年)の、伊都多さんの祭礼の際、祈禱所で座る席次を巡っての騒動。元々平等とされちょった、郷庄屋、浦庄屋、町役の三者。町役は、商人層。しかし、この時に、町役が、浦庄屋、郷庄屋の上座に座ろうとしたことから争いになり、村方庄屋が、藩に訴え出た、という事件。これがきっかけになって、天保庄屋同盟結成へと進んでいった、という、その有名な舞台がここ。
天保12年に結成されるに至った庄屋同盟は、役人や商人層に対して庄屋の地位向上を目指した秘密同盟ながですが、これが、幕末の土佐勤王党のルーツのひとつともわれる、重要なものでありました。
この鳥居の脚と思しき石がご寄進されたのは、事件の6年後、同盟結成の2年後。同じく天保12年には伊都多神社さんが火事で焼けた、という記録もありますきに、その再建に合わせて建てられた鳥居ながかも知れません。
こっから海に出た海岸通には、前浜砲台跡。この鳥居が建てられた丁度10年後、浦賀にペリーが来航していよいよ幕末激動が開始。この海岸にも、慌てて砲台が建設された訳です。
まだ建てられたばかりの鳥居も、その砲台と太平洋を眺めておったことでしょう。そしてその翌年には安政南海地震。その際の津波は、ここまでは襲いませんでした。宝永に比べたら規模が小さい安政津波。その津安政津波も見たであろう鳥居も今は無く、脚部分だけを残して静かにたたずみます。