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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

石柱の正体〔3853〕2013/11/02

石柱の正体

2013年11月2日(土)薄曇り

暖かい朝。今朝は高知。お天気は下り坂で、気温は高めの高知市内。市内各所で、色んなイベントが行われよります。降らんかったらエイですけんどね。

ここは高知城。追手門を入って左手に、大きな公衆便所があります。その右手。コインロッカーの建物と、電話ボックスがあります。その南は丸ノ内緑地。
そう。我々が子供の頃には中央公民館があった丸ノ内緑地。藩政期はもちろん高知城の内堀の中で、厩と、馬場がありました。

明治維新の後、建造物がすべて取り壊され、女子師範学校になったり警察署になったり。明治45年に公会堂が建てられ、また、農業会館も建てられた丸ノ内緑地。その、北端。追手門から入った広場に面して、明治35年につくられたのが武徳館。大日本武徳会高知支部の、武徳館。

大日本武徳会は、ウィキによりますれば、戦前の日本で、武道の振興、教育、顕彰を目的として設立されちょった財団法人。武徳の涵養とそのための武道の奨励、それによる国民の士気を振興することを目的とした、とあります。同じくウィキによると、武徳とは、「大和魂トカ、尚武ノ氣象トカ、愛國ノ精神トカ云フト同ジコト」となっちょりまして、昭和17年には武道関係を統制する政府の外核団体になったそうです。

武道とか、その徳とかを理想として、精神を鍛えることには何の異存もございません。大切な事。ただ、それが理念的に先鋭化しすぎて、あらぬ方向へ突き進むのに利用された、ということが、曾て、この日本でありました。それは、古くからの武道の教え、日本人の心とは、実は、かなり違うものでありました。しかし、それこを大和魂なり!と大声を出したひと達の中には、人間としてどうなのか、と首を傾げたくなるような、徳の無い者が多かったのも、これまた歴史の事実ですき、難しいところ。
ここにあった武徳館で武道を学んだ、非常に立派な人物も多かったのも、マギレもない事実です。

なんで、こんな話を書くかと申しますれば、その武徳館の痕跡を発見してしもうたきです。すごい!

この、電話ボックスの裏の石柱。実は、以前から気にはなっちょったがです。古い石の柱。いったい何の痕跡ながやろうか、と。
今朝、何の気なしに、高知新聞社さん発行の写真集を見よって、見つけました。「高知武徳館 明治39年に武道の殿堂として高知城追手門広場横に建設されたが、戦災で消失した。同43年の写真」とあります。その玄関の前。玄関前両脇に、二本の石柱。向かって右側には「武徳館」と書かれちょります。
どうやら、この写真の、電話ボックス裏の石柱は、その、向かって左側のものらしいのであります。その、先っぽの尖りようと言い、石のデコボコ具合と言い。
そうそう。上に書いた、明治35年に建てられた武徳館は、2年後に消失。そして、明治39年に再建されちょります。その再建部徳館の写真に写る石柱。それが、幾星霜の年月を超え、ここにひっそりと立っちゅう訳です。

嬉しいですね。何の痕跡か、気になって気になっておれざったものが、判明するのは。
この石柱は、これからも、武徳館がここに在った証拠として、幾星霜、植え込みの中でひっそりと立ち続けていくのでありましょう。


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