愛宕神社の石段、残った町名〔3830〕2013/10/10
2013年10月10日(木)東京も暑いです
今朝は東京。昨日のお昼の飛行機でやって来ました。台風一過で高知も暑かったですが、東京も暑いです。高知では考えられんくらい歩くので、汗ビッショリになってしまいますね、東京は。
愛宕山の下に泊まっちょったので、今朝は早朝、愛宕神社をお参りしちょいてから北上、皇居を周回して、そして築地へ。皇居を走るがは久し振りのような気がします。以前に比べたら、皇居ジョガー、激増しちょりますね。市民のランニング熱は、盛り上がっちょります。
以前には無かった、ランナーにマナーを守るように促す立て看板がどっしこ。で、周回ランナーは、時計の逆回りで走るように指示が出されちょります。
速いランナーは速い。こじゃんと。いつものペースでのったり走りよりましたら、ビュンっと追い抜いていった高速ランナーが二人。他は、小生とメッソ変わらんペースが多く、抜いたのは6人。まあ、良いペースで皆さん皇居RUNを楽しみよりました。以前にはなかった風景は、おまわりさん。皇居の警備だけに立っちゅうようには見えません。多分、ランナーと歩行者のトラブルを防止する為、歩道のあちこちに配備されちゅうがでしょう。ご苦労様です。何ヶ所にも立っちょりました。
さて。東京出張の朝はおやくそくの築地。RUNの最終目的地は築地。今日はですね、FB友達にご教示頂いちょった、場内、八千代のチャーシューエッグ定食を食べて来ました。いや、ホントに、朝っぱらからですが、ボリュームたっぷりで美味しかったです。両脇のお店は有名なお寿司屋さんらしく、早朝から長蛇の列。それに挟まれ、静かにたたずむ八千代さん。小生は、絶対こっちやと思います。
ホテルの裏が愛宕山。標高25.7m。東京23区内最高峰。というくらいあって、藩政期から、江戸の町を見晴らす景勝地でありました。そのてっぺんに、家康公が、江戸の防火を願うて建立させた愛宕神社。信仰の山でもありました。
有名なのは石段。この写真の石段は、男坂。もうちょっと緩い石段もあって、そっちは女坂。
家光公の時代、この石段を馬で駆け上がって梅を採ってくる者はおらんか、と、家光さんが無茶振り。それに応じて見事に馬で駆け上がり名を馳せた武士が出世した、ということで、出世の石段と言われるようになったがは有名な話。
都内随一の高台、ということで、日本で初めての放送局が置かれ、この山の上から、最初のラジオ放送が行われたがも、ちくと有名過ぎる話。
しかし。そんな愛宕山も、今は周囲を巨大な再開発ビルに囲まれました。樹々が大きゅうなったこともあって、見晴らし、眺望はなくなりました。それにしても、森ビル恐るべし。この北側にもう一本、更に巨大なビルが建設中でした。高知に住みゆうと、ここはいったいどこの国か、と思うてしまいます。
しかし、愛宕神社さんのお陰でしょう。鎮守の森は残され、愛宕山は、かつての面影を色濃く残します。もし、由緒ある神社がなかったら、今頃、山もすっかり再開発の波に呑み込まれちょったでしょうねえ。
昭和の頃、住居表示の変更に伴うて、愛宕という町名が消えかかったことがあるようです。そこで、住民による猛烈な町名存続運動が起り、その努力が実って、愛宕という町名が今に残ることになったそうです。昭和53年のこと。
写真左手、86段の石段下には、愛宕町名存続達成 記念植樹と書かれた表示板が立ちます。見事。
こういった町名とかに価値を感じない役人、つまり「俗吏」が、行政に携わるとこんなことをしでかしてしまう、という好例。高知でも、由緒ある町名が数々消えてしまいました。
ここや、弥生式土器の名前の由来になった文京区弥生町など、存続運動が実って残された町名もあります。有名な文化人が、その反対運動に携わってマスコミが騒ぎ出すと、俗吏も、自分の保身で無理を通さない訳ですね。
町名を変更することで、何か、不都合でも生じるのでしょうかね。価値観の問題でしょうか。
ともあれ、朝の愛宕山。参拝者が時折訪れるだけの、静かな鎮守の森。森の中には、そんなことに関係無く悠久の時間がながれてゆきます。