万延元年のフットボールと万延元年のラグビー〔3825〕2013/10/05
2013年10月5日(土)雨
今朝、3時半に目を覚ますと、雨。よう降りよります。このところずうっと晴れちょりましたので、久々の雨らしい雨。この終末、高知市内では豊穣祭などのイベントが満載ですが、雨。ほとんど晴れちゅうのに、9月のラララ音楽祭とか、この豊穣祭とかにピンポイントで雨がしっかり降る、というのも皮肉なもんですな。まあ、仕方ないですが。
重要なときに、雨が降る、とか、巡り会わせとか、世の中では、よく、言われます。真相はどうなのか。たぶん、間違いなく、確率の問題。で、気にしてない時は全然気にしてないので、気になる時だけ、その事象が気になり、確率が高うなったような気がするがでしょうか。
こないだ、潮江天満宮さんで、燈籠や玉垣に記された年号に「天保」が多い、てなことを書きました。それには何か理由があるのかも知れん、と。しかしまあ、冷静に考えてみたら、やはり確率の問題。
藩政期、特に神社仏閣に年号が残されちゅう1800年以降の江戸時代後期の年号を見てみましょう。
最初の享和は4年までですが、文化は15年、文政が13年、天保が15年と、かなり長い元号が続きます。確かに、文化文政の年号が刻まれたものも、よく見かけますし、天保以降明治まで、7年を超える元号はないので、天保と刻まれたオブジェが多いのも頷けるところですねえ。
ちなみにその後、弘化が5年、嘉永が7年、安政が7年と、短うなってきます。これは、政情が不安定になってきたことを象徴しちょりますね。
そして万延。
この写真をご覧ください。右手の狛犬の台座。萬延元年九月と刻まれます。万延は、1860年4月8日から1861年3月29日まで。1年持ちませんでした。ですきに、上記の確率論で言えば、万延の元号が刻まれたものは、かなり珍しいということになります。確かに、神社仏閣で、万延の年号が刻まれちゅうケースは稀。
桜田門外の変とかの影響で、安政から万延に改元した訳ですけんど、不安定な情勢にオジた孝明天皇の意向で、1年持たずに文久に改元されちょります。
万延は、大江健三郎さんの「万延元年のフットボール」が有名で、その元号にも馴染みがあるような気がします。と、言うより、我々世代は、筒井康隆さんが大江健三郎さんの作品をパロディにした「万延元年のラグビー」を思い浮かべるかも知れません。私だけか?
それはともかく、万延は短く、神社仏閣で見かけることも少ないですけんど、なんとなく存在感はありますな。
次の文久は4年までしかありませんが、龍馬が脱藩したり薩英戦争が勃発したり8月18日の政変があったりと、非常に重要事件が頻発した時期なので、やはり存在感抜群の元号。
そしてその後が元治。元治は、1864年3月27日から1865年5月1日で、1年ちょっと。短い。蛤御門の変とか池田屋騒動とかがありました。が、小生的には、なんとなく影が薄い元号に思えます。短いので、神社仏閣で見かけることも少ない。万延と元治は、万延の方が短いくらいですけんど、万延より元治、陰が薄いと思いませんでしょうか。
で、慶応になって3年で明治。
幕末、元号は短うなりました。眺めてみると、藩政期を通じて、元号が短くなる時期が、幕末を入れて3回くらいあります。
1736年の元文元年から1748年の延享5年までの12年間に元号が3つ、という時代と、1644年の正保元年から1661年の万治4年前までの17年間に元号が5つ、という時代。どんな理由で元号が短かったのかは、さだかではありません。
と、まあ、どうでも良いような話を、雨の上岡八幡宮で、萬延元年と刻まれた狛犬の台座を眺めながら考えたことでした。