やりゆうやりゆう!〔3820〕2013/09/30
2013年9月30日(月)薄曇り
今日は9月30日。もう、9月も終わり。速いっすね〜。飛ぶように過ぎて行く日々。朝晩の、寒いくらいの涼しさは、もうすっかり秋ですけんど、日中はまだまだ暑い高知です。
しかし。こうやって空を見上げると、なんとなく秋っぽい雲ではありませんか。魚の鱗のような雲が高知の市街地の上に広がります。
ここは新図書館建設予定地。つまり、この3月まで、高知市立追手前小学校があった場所。ここに、子供達の元気な声が響きよったがが遠い昔のようです。
もう、すっかり取り壊された校舎。運動場のあった場所には大きな穴。埋蔵文化財の発掘調査でしょう。やりよりますやりよります。
今から400年ちょっと前。山内氏が土佐へ入国し、浦戸から大高坂山に本拠を移して、城下町の建設を始めました。
こっからは妄想に近い想像。
北に江ノ口川(当時は、今よりのずっと川幅の広い大川)、南に鏡川(当時は潮江川か?)。自然の地形は、たぶん、川沿いが低く、川と川の間の真ん中が小高くなっちょったがやないでしょうか。
で、お城を築いた大高坂山から真っすぐ東へ幹線道路を通します。一番海抜の高い尾根筋。それが、追手筋。江戸の都市計画がそうであったように、高知の城下も、尾根筋の幹線道路を中心に街がつくられたがでしょう。
メインストリートに向いて表玄関である重厚な長屋門が置かれたでしょうか。そのメインストリート沿いに屋敷を構えたのは、もちろん有力家臣。家老級のひと達のお屋敷。ですきに、こじゃんと広い。
追手筋側は正面玄関で、北側の屋敷は北へ、南側の屋敷は南へなだらかに下る斜面を利用して庭をつくり、池もこさえたかも知れません。川に近うなるに従い、藩での地位、身分も下がっていき、屋敷も小さくなっていったでしょうか。そんな城下町づくりの風景を、いつも妄想してしまいます。
さて。
そんな、藩政期を通じて家老級の屋敷があった、ここ、追手前小学校跡地。発掘調査で、藩政期の遺物や遺構がたくさん出土することは、容易に想像できます。近世の遺構、遺物。問題はその下。
以前にも書きましたが、お城のネキの財務局跡地とくみあい興産跡地。あそこに、中世の遺構が出てきちょります。この界隈の中世と言えば、誰しも思い浮かべるがが大高坂氏。お城の山が大高坂山ですきんね。
14世紀頃には、追手筋界隈には人工の水路が掘られt、街が形成されちょったような遺構が出た訳です。14世紀と言えば南北朝の戦乱時代を含みます。
土佐で南北朝と言えば、南朝方について活躍、最後は討ち取られたと「佐伯文書」という有名な資料に出てくる大高坂松王丸さん。その時代の遺構かも知れんと想像したら、興奮してしまいます。
が、しかし。
その佐伯文書が偽書である、という大胆な説が、土佐史談に発表された、という話も以前書きました。地元の権威の方からはなかなか認められちょらん説ですが、非常に興味深い論証でした。で、もし偽書であるならば、松王丸くんも存在しないことになる。実際は、どうなんでしょうか。妄想が暴走します。
ここ、追手前小学校運動場跡地は、明治以降も、大きな建物が立ったことがない場所。つまり、基礎工事等で荒らされてない、貴重な場所。民地やったら、こうはいかんかったでしょうな。そこで行われる発掘調査。近世の遺構の下に、ひょっとしたら、大高坂氏の存在に関する以降でも出てきた日には、もう、すごいことになります。
古代は浦戸湾の湿地帯。そして、中世に灌漑や埋め立てが行われ、都市が形成されていったのでしょうか。そんな時代の動きが、この発掘調査で出てこんろうかとワクワクしゆう日々です。