下知村役場と下知尋常小学校と羽田〔3800〕2013/09/10
2013年9月10日(火)晴れ
ここははりまや橋。交差点の北東に建つ、デンテツターミナルビル。1階部分に、最近、コンビニができてビックリしました。そのコンビニと交番の間のピロティ壁面がこの写真。確か、以前、一度ご紹介したことがあると思います。その時には、この壁画の横に説明板があったので、どこの何を描いた絵なのかわかりましたが、今はその説明板も剥げ落ち、知らんかったら何が何やら。そんな壁画。
この壁画の風景は、下知村役場と下知尋常小学校。まさに、こないだご紹介した宝永町のバス停の場所。電車が停まっちゅう辺りの左、つまり北側が、こないだの写真の場所かも知れません。電車通りは、向こう、つまり東に延びていきます。
役場と小学校以外は、一面の農地。この南側に土電の車庫があったがですね。大正の頃の風景でしょうか。
何故、ここにこのような風景が描かれちゅうがかは謎。土佐電鉄のビルですき、電車の風景ながかも知れません。
今朝、ここに居った理由は、バス待ち。空港連絡バスを待つに、バス停やと日陰が無く、暑いので、この涼しい場所で待ちよった訳です。
で、空港バスに乗って高知空港、そして、今、飛行機でやって来た羽田空港で、昼食を食べながらこのにっこりを書きよります。午後から業界の寄り合いながですね。
羽田界隈は、海沿いの静かな町。今でも京浜急行に穴守稲荷という駅があって、駅からしゅっとの所に穴守稲荷さんが鎮座ましましちょりますが、あのお稲荷さんは、元々は現在の空港の敷地内にあって、空港の為に、今の場所に遷座させられちゅうがはご承知の通り。
羽田に日本飛行大学校が置かれ、羽田飛行場という名の飛行訓練施設ができたがが大正6年となっちょります。徳川好敏陸軍大尉が、代々木で、日本で初めて飛行機で空を飛んだがが明治43年。その7年後には、羽田に飛行機の訓練施設ができちゅう訳です。なるほど。しかし、当時は訓練用の飛行場。羽田が正式に民間の飛行場として開港したがは昭和6年。
おう。高知の浦戸湾に、高知新聞社が水上飛行機の飛行場をつくったがが昭和8年ですき、どちこちないですな。浦戸湾の水上飛行場は、大阪との定期旅客便も飛びました。
久生十蘭さんの小説に、羽田へピクニックに行く情景があったと記憶しちょります。複葉機がのどかに飛び、滑走路脇の野原でお弁当を広げてピクニック、みたいな感じやったような記憶。違うちゅうかも知れません。
昭和初期、羽田は、そんなのどかな、しかし飛行機というモダンなものが飛ぶ、ちょっと洒落た場所やったがかも知れません。
しかし、戦争になって軍事用飛行場となり、民間飛行場に復するのは戦後。
今は巨大になりました。小生が学生時代、YS-11で高知へ帰りよった、あの頃からは想像もできんくらい。あの頃の空港を思い出すがも大変になってきました。便利な便利な巨大な羽田空港。
穴守稲荷の門前町が賑わい、海水浴場で子供達が歓声をあげた時代。飛行場の脇の野原でお弁当を広げたのどかでモダンな時代。軍用機が飛んだ時代。30年前の羽田、YS-11で高知へ飛んだ羽田の風景もありました。
この写真の壁画ぢゃあないですが、風景は変わり過ぎて、その頃の状況をイメージするのも難しゅうなりましたね。