線路はつづくよ、そこまでは〔3799〕2013/09/09
2013年9月9日(月)薄曇り
少し蒸せる朝。とは言え、もう、秋の気配があちらこちら。夜明け前の真っ暗な神社で聞こえるのは、秋の虫の声ばかり。
今朝はかなり早く出勤、用事を済ませて、ここまで車で行ってきました。新改駅。香美市の山中にある、スイッチバックのある秘境の駅として有名な、新改駅。標高274mやそうです。
以前、わかみや温泉まで走ってきて、温泉につかった後、ここまで歩いて汽車に乗ったことがありました。車で来たがは初めてかも知れません。
この駅の始まりは昭和10年。新改信号場として、土讃線の土佐山田駅と繁藤駅の間につくられた訳です。
この、山田から繁藤への上り坂は急にして長い。で、詳しい方に聞いた話によりますれば、蒸気機関車で一生懸命登りゆうと、トンネルも多いしなかなか進まんし、ということで、運転手さんが酸欠になって気を失うたこともあるそうです。それっぱあの難所。
上り下りの行き違いの為、ということもあったでしょうが、登りの汽車が一休みする、という意味もあったがにかありません。そんな山中の信号場。戦後、昭和22年に、ヒトも乗り降りする新改駅になりました。
スイッチバックですき、上りの各駅停車の汽車は、一旦左側の、駅のホームがある線路に入ってきて止まります。で、下りの汽車をやりすごしちょいて、バック。本線にバックせず、本線の上段に敷かれた線路に乗り入れ、そして再び前進して出発、というのは、別に説明せいでもご承知の通り。行き違いの場合は、結局、下り普通列車は、通過せざるを得ない、ということになりますよね、この仕組みやと。
写真は、上りの汽車がホームへ入ってきて、その線路の延長線上の行き止まり。こんなになっちょります。
この新改駅界隈、戦争末期、四国防衛軍の司令部が置かれた地域でもあります。第55軍。司令官は中将で、天皇陛下の直隷。12万人の部隊の司令部。
最初は高知の市内に司令部を置きましたが、米軍上陸、本土決戦に備え、ここ、新改の山中に要塞を築くことになった訳です。昭和20年6月と言いますき、もう、かなり戦争末期。
決戦の場となる太平洋岸、そして香長平野から一歩引いた、要害の地。鉄道も通っちゅうということで、補給にも便利、と、司令部をここにしたがでしょうか。
この山には、たくさんの壕の跡などが今でもあるそうです。車で上がって来た道路沿いで、それを見つけることはできませんでした。今度探検してみんといけません。
駅界隈に、何か痕跡でもないろうか、と思うてたつくりながら、この写真を撮影しました。
6月と言えば、蒸し暑い、梅雨の季節。この今朝しい山中で、要塞構築の為に日々、穴を掘り続けた兵士達。
ここが、四国防衛の心臓部であった時代があった。そんなことは想像もできない、現在の、静かな静かな新改駅。利用客は、こっから1km下った平山地区の方でしょうか。過疎の集落ですき、一日に、何人も利用することは無いかも知れない、静かな静かな山中の駅。