築地の涼しい朝、旗山〔3761〕2013/08/02
2013年8月2日(金)涼しい〜
今朝は東京。昨日のお昼の飛行機でやって来ました。珍しくJALの飛行機は満席。さすが夏休みやねえ、と思いよりましたら、違うちょりました。午前中のANAの東京便が、誘導路まで出た所でトラブルが発生し、欠航。そのひと達が流れ込んできて、それで満席。たいへんっすね、皆さん。
東京へ着き、横浜界隈でお仕事。暑いというたち。まっこと。ちょっと外を歩くだけでもう、汗ビショ。高知よりは確実に、蒸し暑い。気温の問題ではないですな、こりゃ。
で、一夜明け、今朝は東京出張お約束の築地RUN。品川界隈から、湾岸を走っていきました。おう、涼しいではないか!
そう。今朝の東京は、意外と涼しい。予想最高気温を見てみると、なんと29℃。30℃を切っちゅう!これは涼しい。今日からちょっとだけ、東日本が涼しゅうなるがにかありません。西日本は相変わらずの猛暑。
さて。朝の築地。実は昨夜から、完全に「ホルモン丼腹」になっちょったことを告白します。朝、築地まで走って、場外の、きつねやさんのホルモン丼を食べる。そのことで昨夜から頭が一杯やったので、キチンと実行できて、満足満足。おいしゅうございました。濃厚な朝っぱらからのホルモン丼。
それから場内散策。場内の、食堂が並ぶ場所の近くに、この、水神社さんが鎮座。ご存知でしょうか。神田明神境内に鎮座まします水神社本殿の遥拝所。大漁、海上安全、子孫繁栄の神様。そして、ここには、このような「旗山」と刻まれた大きな石。海軍の痕跡。
ここ築地に市場ができたのは、大正12年。関東大震災で日本橋の魚河岸が壊滅し、海軍省の土地であったここを借り受けて市場として営業を始めました。
築地が、日本の海軍の本拠地となったのは明治維新の頃。それまでは、諸藩のお屋敷や、松平家の下屋敷「浴恩園」など。その浴恩園の跡に海軍省がつくられ、庭園の池はドックに。築山の「賜山」に、海軍の旗が掲揚されるようになり、その山はいつしか「旗山」と呼ばれるようになったとされます。
海軍省はその後移転しますが、界隈には、海軍関係の施設が太平洋戦争まで残りました。
この「旗山」の碑文は、昭和12年、海軍大臣の永野修身によって書かれちょります。現代文に、文責ひまわり太郎で読み下してみますれば。
以下読み下し
ここは、藩政期の昔、松平定信の別邸「浴恩園」の景勝地「賜山」の一部に属した。明治2年、海軍省部局をこの地に置き、5年、本省を設立してから、海軍卿旗をその小山の上に掲揚した。それで、世人は、これを旗山と呼ぶようになった。この地は、まったく、海軍経営の根幹を担い、海軍発祥の地とも言えよう。その後、年月を重ねるうちに海軍省も移転し、わずかに、その門を留めるのみとなった。地形も変わってしまい、昔の風景も忘れられようとしている。そこで、旗山のあった場所に碑を建てて、記念とするものである。
昭和12年1月5日
海軍大臣 永野修身
以上読み下し
と、いうことです。永野修身は、ご存知土佐出身の海軍軍人。自称「土佐の天才」。自称です。まあ、海軍を、戦争に引きずり込んだ張本人として、評価は高くない、いや、かなり批判も多い軍人さん。
それはともかく、こじゃんと賑わう築地場内の一角。ここに、ここが日本海軍の発祥であり、本拠地であったことを示す碑が静かに立っちゅうことは、メッソ知られちょりません。