山内一豊、阪井重季、寺田利正〔3752〕2013/07/24
2013年7月24日(水)晴れ
今日も暑うございます。乳牛もちくとコタイこんできました。たまには涼しい日も必要ですな、こりゃ。
さて。今朝は、こないだ発見した興味深い碑文を撮影してきました。高知城の下、県立図書館のしゅっっと横。山内一豊さんの立派な騎馬像のネキ。
現在の山内一豊公騎馬像は、平成8年、有志の募金によって再建されたもの。初代は、大正2年、かの龍馬像でも有名な本山白雲さんによって製作されたもので、戦時中の金属回収で供出させられました。それを、平成になって、寸分違わず再建されたという訳です。
最初の像の除幕は大正2年11月12日。そして、像の横に、「藩祖銅像建設之記」という碑が建てられたがが大正3年3月1日。その碑には、騎馬像建立の経緯と、裏面に発起人総代の皆さんの名前が刻まれちょります。
写真は、その、裏面の発起人が刻まれた部分。
なるほど。
まず、東京在住の男爵の名前が2人。内田正敏さんは、高知城下築屋敷出身の海軍中将。そして阪井重季さん。おう、こんなところにこんな名前が。
この方、陸軍中将までつとめられた人物。板垣退助さん、片岡健吉さんの家のしゅっと東出身の、上士。で、この人物の娘さんが、かの、寺田寅彦さんの最初のお嫁さん。寅彦満19才、熊本の五高在学中に、阪井夏子さん満14才と、結婚しちょります。
しかし、ほとんど一緒に暮らすこともなく、夏子さんは、5年後に肺の病いで亡くなりました。そのお父さんの名前がこんなところに。
夏子さんのことについて書かれた随筆、「団栗」は、寺田文学を代表する名作として有名。寺田寅彦さんの、あの、美しくも寂しい文章は、この、中島町の美少女として有名であった最初の奥さんを早くに亡くしたことも影響しちゅうのではないかと言われます。
そう思いながら、この発起人の名前を見ていくと、ありました。寺田利正さん。そう。寺田寅彦さんのお父さん。陸軍の会計官で、明治15年頃、熊本鎮台で、阪井重季さんと一緒に勤務しちょります。同郷ということもあって、非常に親しくなったようですね。そんなご縁で、寅彦の最初の妻は、父、利正が、阪井夏子さんに決めました。
この、利正さんは、寅彦文学によりますと、対外的には機嫌の良い社交的な人物であったようですが、家の中ではいつも機嫌が悪く、付き合いにくい父であったように書かれます。随筆の中に「機嫌が悪い老人」として登場したりしますきに。
しかし、息子の寅彦には、かなり期待をかけちょったようで、小津神社に、寅彦少年が病気になった際に掛けた願の願ほどきに利正さんが寄進された燈籠が残ります。
その利正さんは、大正2年8月17日に亡くなりました。
ん?
初代の山内一豊騎馬像の除幕は、上に書いたように大正2年11月12日。そして、この碑が建てられたのは大正3年3月1日。もう、寺田利正さんは亡くなっちょります。
しかし、像をつくろう、と有志が呼びかけた頃は、まだ、ご存命やったがでしょう。最初の娘の嫁ぎ先の父親、阪井重季さんに誘われたがでしょうか。それとも、反対に、利正さんが、親しい男爵、阪井重季さんを、発起人の総代に担ぎ上げたがかも知れません。
こんなところで、こんな名前を発見し、想像を巡らしてしまいました。意外なところに意外な人物のお名前。実に興味深い。