夜明け前、鏡川、筆山、お月様〔3751〕2013/07/23
2013年7月23日(火)心地良い朝
今朝は、久々に、鏡川のお月様を眺めてみました。午前4時過ぎ。
ここは鏡川、九反田橋北詰。手前のアーチ橋は水道橋で、その向こうに雑喉場橋が見えます。その向こうが筆山。そして満月。川面に月の光。真夏の高知、夜明け前の美しい風景。
あの筆山、潮江山とも呼ばれ、藩政期には真如寺山とも呼ばれました。今は、山内家の墓所をはじめ、たくさんのお墓があり、市民の憩いの場所でもある筆山。
歴史に登場するのは暦応3年(1340年)。南北朝の時代。
建武の新政で、後醍醐天皇が政権を握ったのは1333年。これは日本史の試験に出ましたので覚えちょりますよね。で、その3年後には崩壊して足利尊氏さんが室町幕府を成立させ、後醍醐天皇は吉野に逃れて南北朝の対立時代へと突入。これも試験の範囲でした。
さて。土佐でも、南北朝に分かれ、合戦が行われた訳ですが、そのクライマックス。西岡家文書という文献によりますれば、暦応3年(1340年)1月24日、後醍醐天皇の第11皇子、花園宮満良親王が、新田綿打入道、金沢左近将監などの南朝方の軍勢を従え、土佐南朝方の総帥であった大高坂氏の救援に駆けつけ、潮江山に布陣した、となっちょります。そう。あの、筆山。
結局、翌日の25日に決戦が行われて南朝方は敗北。
そんな歴史のある、あの、筆山。
その後、戦国期になって、四国山地の山中からでてきた森氏が、その潮江山に築城。この川の対岸に土居町とかの町名が残るがは、森氏のお城の土居があったことからきちょります。
そしてその後、本山氏の城となり、元親初陣という話もある戸の本での長宗我部VS本山の戦いの際に、元親くんによって陥とされた潮江山の城。その際は、本山の軍勢は逃げちょったので、無血入城やったとされます。
さて。
あの筆山の中腹にユースホステルがありました。現在は市営の筆山文化会館。バンドの練習ができたり、陶芸などができたりする施設。
以前、若い頃、そこでバンドの練習をしよりました。管理人のおんちゃんが一人。で、夜になったらこれは怖い。すごい雰囲気の、山中の一軒家。おんちゃんに、怖いことないかえ?と尋ねたら、アシは平気ぢゃ。けんど、たまに、夜ひっとりで居ったら、落ち武者みたいな連中が背後を通っていくこともある、と、平然と宣っておりました。落ち武者っすか。
ここ、筆山で合戦があったのは、その、1340年。森氏と本山氏の間の争いで、この筆山で合戦があったかどうかは知りません。元親さんは無血入城。
その落ち武者みたいなひと達は、どの時代にここで討たれたヒトながやろうか、と、想像してみたこともあります。
藩政期になり、山内氏が土佐へ入国。その際、潮江川(鏡川)には、天神橋(真如寺橋)以外に橋を架けんかったようです。長宗我部の残党が、山の方から攻め込んできて防げんなった場合、潮江川を南へ渡って筆山に逃げ込んで応戦する、という計画の為にかありません。で、橋を落として、その間に、筆山から南嶺を経由して海に出て、逃げる、という逃走ルートを確保しちょった、という話もあります。
そんな筆山。山内氏は、歴代藩主の墓所を、そこにつくりました。今も、一般人は立ち入り禁止で、墓所が静かにたたずみます。