若一王子神社さんと、激変した風景〔3729〕2013/07/01
2013年7月1日(月)薄曇り
雨はあがりました。昨日の夕方には小降りになり、降ったりやんだりになっちょったので、各所の輪抜け様は、そんなに濡れることもなく、賑やかに開催されたにかりません。うちのJr.2号は、部活の友人と、どうせ濡れるきということで、あの雨がエラかった時間帯に、部活のユニホームのままで石立八幡宮の輪抜け様に行ってきたそうです。もちろんビショヌレ。まあ、男子高校生は、こんなお間抜けなことをしでかしたりするもんです。羨ましかったりしますね。
さて。
今朝は、南国市田村の、若一王子宮さん。神仏習合の頃は若一権現だんとも呼ばれた、熊野系のお宮さん。つまり、修験道とか、山岳信仰とかと結びつき、日本国中に広がった信仰の神社。
ここの若一王子宮さんは、地元田村の豪族、入交氏の入交源六兵衛さんが、熊野から勧請してきた、という記録があるそうです。700年前。中世。その頃、熊野信仰は広がりを見せちょりました。それ以来この田村に鎮座ましまし、周囲に、守護代屋敷と環濠集落が形勢された室町の頃も、鎮守の森に守られてたたずんできました。
拝殿は南に向き、その南には太平洋。そんな広々とした風景を、700年間眺めてきた若一王子さん。太平洋戦争末期に、南に飛行場ができました。そこで海軍航空隊の練習機が離発着を繰り返す風景もありました。米軍のグラマンが、飛行場を目標に爆撃を仕掛けてきた風景も。幸い、鎮守の森は残り、境内の真ん中には大きなクスノキが、今も屹立します。
戦後、海軍の飛行場は高知空港になり、旅客機が毎日飛び交うようになりました。この境内から南を見ると、空港の管制塔が見えました。悠久の流れのなかの風景に、少し変化があった訳です。2010年2月24日のにっこりひまわりで、境内から管制塔を見渡す風景をご紹介しちょります。
そして今。境内から、南の広大な農地や飛行場は見えんなりました。東部自動車道の建設で、この若一王子宮のしゅっと南に、巨大な土塁ができたきです。参道入り口の鳥居の、すぐ南。昔は田んぼやった場所。劇的な風景の変化。
700年ここに鎮座してきて、初めて、こういうことになったでしょう。地域の安全で幸せな暮らしを願い、国人領主が、熊野から勧請してきた若一権現さん。この眼の前の土塁は自動車道になります。が、もうひとつ。東日本大震災でも、高速道路の土塁が、津波の被害を食い止めた、という事実があります。この田村の平野を横切る土塁は、そんな効果も期待されます。
地域の安全な暮らしを守る土塁として、ここにできたのであれば、若一王子さんも許してくれるかも知れません。