野市、戦争の生々しい痕跡〔3699〕2013/06/01
2013年6月1日(土)晴れ
雲は多いですが、晴れ。心地良い朝。
ここは今朝、5時前の野市、上岡。向こうの小山が命山、上岡山で、そこに鎮座まします上岡八幡宮さんにつながる参道が、ここまで延びてきちょります。参道はここから始まり、まっすぐに拝殿へ。
この反対側は畑で、参道はここまでしかありません。
この参道がある場所は、段丘の下。Googleマップの航空写真を見るとよくわかりますが、上岡山を起点にして、南東の方向に段差がずうっと延びちょります。明らかに、物部川によって形勢された段丘。段差は3m以上はあります。段差の上側は、野市の台地につながります。段差の下側は、扇形に太平洋まで広がる低い土地。
たぶん、過去の南海地震津波でも、物部川の氾濫でも、段差の下側は、被害に遭うてきたと思われます。ですきに、現在でも住宅地は、この写真の右上にあるように、段差の上側にあります。下側に建てられた家は、ほとんどありません。
その、段差の下側に、南東に延びるこの参道は、今は、誰が通るのでしょうか。秋のお彼岸の頃になると、この参道には彼岸花が咲き乱れ、レッドカーペットになります。以前、ご紹介したこともあります。
さて。本題はこの柱のオブジェ。これは、かつて鳥居であったことは間違いありません。左側の柱に嘉永の銘が刻まれちょりますので、境内に立つ、嘉永3年に立てられた鳥居と同時期のものと思われます。1850年。幕末。南海地震の4年前。つまり、この鳥居がご寄進されて4年後、南海地震が発生。八幡様境内に立てられちゅう碑によりますと、あの上岡山の西の河原まで津波が遡上してきた、となっちょります。ここは大丈夫やったかも知れません。そして、揺れにも耐えて95年。もうちょっとで100年になろうか、という昭和20年に、こんなになってしまいました。
以前から、この壊れた鳥居のことは知っちょりまして、このにっこりでも何度かご紹介したこともあるがですが、これが戦争遺跡であることを知ったのは最近。上岡山に戦時中に掘られた壕、トンネルがある、ということで、それの現地説明会をやった中で、その話がでてきたそうです。地元の皆さんの証言。
物部川の向こうに海軍の飛行場があったので、米軍は、こっちの野市側から飛行場向けて攻撃を繰り返したかもしれません。それを迎え撃つ為、上岡山に壕を掘ったりした訳ですね。その米軍の爆撃で、上岡八幡宮さんも、随分と被害を被っちょります。折れてしもうた玉垣群。西参道の鳥居や狛犬。たぶん境内の鳥居も。そしてここ。
この足元に、鳥居の上にあった笠木が無造作に転がっちょります。右手の柱の向こうにも。たぶん貫(ぬき)。グラマンの爆撃で破壊された鳥居は、68年経過した今も、たぶん破壊された当時のまま、ここに置かれちゅうのでありました。参道の真ん中をあける為に寄せたりはしたでしょうが、基本的には68年前のまま。当時のことを忘れないため、そのままにしてある、というような話も聞きました。
地元の古老に、そうやって説明してもらわんとわからん戦争遺跡。貴重な貴重な風景。ここにも戦争があった証。後で立てられた碑とかも大切ですが、この、グラマン爆撃当時の、そのままの風景を伝える遺跡を、後世に伝えていかんといけません。