初めての隠岐、恐るべし!〔3657〕2013/04/20
2013年4月20日(土)隠岐は曇り
で、今朝は、初めての隠岐。島根県の隠岐。日本海に浮かぶ隠岐。生まれて初めてやってきました。勉強会の視察。
隠岐は、北東のまん丸こい島が島後で、南西に3つの大きな島を中心にしていっぱい固まっちゅうがが島前。その島前の、海士町(あまちょう)のある島に、昨日の夕方到着しました。鳥取県の境港からフェリーで2時間半で、西ノ島の別府港。そっから小さな船に乗り換えて海士町。
隠岐で、我々がしゅっと思い浮かぶがは後醍醐天皇。鎌倉幕府に謀反をおこし、捉えられて隠岐に流されました。しかし脱出して政権を奪取し、建武の新政を行ったのはご承知の通り。昨日の、2000トン以上あるフェリーでも結構揺れました。中世、島を脱出したのは、かなり勇気の要ることやったでしょうな。
で、隠岐に来てみますと、後醍醐天皇というより後鳥羽上皇。後醍醐天皇の1世紀前、鎌倉幕府にたてついて流された上皇。新古今和歌集の編纂を命じたことで有名な、和歌の達者な後鳥羽上皇。
後鳥羽上皇は、結局、隠岐で亡くなりましたので、隠岐のとっては親しみが深いがかも知れません。
後醍醐天皇の行在所は島後でしたが、後鳥羽上皇は、ここ、海士町。ここのお寺さんで、和歌をつくったりしながら、生涯を終えたということ。
昨夜は民宿に泊まっちょりましたので、朝、美しい島をたつくりまわって来ました。そして隠岐神社。
隠岐神社は、後鳥羽上皇をお祀りした神社。行在所跡のしゅっと横。御火葬塚の近く。寂れたり篤く祀られたりする変遷を経て、昭和14年に隠岐神社になりました。まあ、時期が時期ですき、ちくときなくさい意図も感じられたりはしますが。
写真は、行在所のお寺さんがあった場所。この美しい島のこの場所で、後鳥羽上皇が暮らしたということ。
さて。何故、隠岐へ視察か。
隠岐でも、この海士町は、移住政策の、日本の聖地とも言われる島。辺境の離島に、Iターンの優秀な若者が次々と訪れて移住し、新しい産業を創出したりしゆうという奇跡の島。何故、この島だけがそんなことになったのか。ひとえに、現在3期目の山内町長の想い、行動に端を発します。そして役場の職員の皆さんのすごいこと。
で、すべてはヒトに帰結する、ということを何より大切にしゆう町、海士町。島前には、島根県立島前高校があります。数年前から新入生が30人を切り、そのままやったら間もなく廃校でした。
しかし、島に高校がなくなるということは、その人口と、悪くすればその家族の人口も失うことで、そうなったら、もう、島に未来はない。
と、いう時期に、これまた優秀な教育の人材が移住してきて、島前高校魅力化プロジェクトがスタート、「夢ゼミ」という、学校と連動した塾もできて、見る見る間に人気化。
ほんの数年で、島外からの3割の入学者も含めて50名入学するようになったという奇跡の高校。東京や、外国からまでやってくる高校。
すごい。話には聞いちょりましたが、実際に来て、当事者から話を聞くとすごいですねえ、まっこと。
ところで今気付きました。島前。ここはカルデラやったがや数百年前の火山活動でできたカルデラ。それで、3つの島に囲まれた内側が内海みたいになっちゅう訳だ。なるほど。高知の沖の南海トラフに由来する火山でしょうき、なんとなく親近感をもってしまいました。
隠岐、海士町、恐るべし。