大高坂山、変わりゆく風景〔3652〕2013/04/15
2013年4月15日(月)晴れ!
昨夜は雷雨。しかし今朝は、きれいに晴れ上がりました。雨に濡れた街が朝日に輝いて美しい風景。雨上がりの朝は、いつも壮快。
にっこりひまわり、明後日で10周年。近づいてきましたねえ。そんな訳で、最近は、この10年間で無くなったもの、変化したものをご紹介してきました。
今日は、これから変わっていくことが確定しちゅう風景。ここは、高知城の南東。クミアイ興産の駐車場と、財務局があった一角。すべて取り壊され、現在は更地。ここには、県立の歴史館ができることになっちょります。高知城の天守閣が朝日に輝き、矢板の間から追手門も見えます。このアングルからの、この、天守閣と追手門が一緒に見える風景は、今だけのもの。ここに巨大な歴史館ができたら、もう見ることはできんなります。
この界隈、もちろん、藩政期には土佐藩の重臣たちが居住する、お屋敷町。お屋敷と言うたち、ひとつひとつが広大巨大。建物も庭も立派なお屋敷が並ぶ区域やったことは言うまでもありません。
藩政期以前はどうやったのか。
この、高知城の山、大高坂山に、長宗我部元親さんが岡豊から本拠を遷してきたがは天正16年(1588年)。そして、お城の西南に「朝倉市」、西側に「新市」という市町を形成して、街づくりを行ったことは、地元の史家達の検証でわかっちょります。かなり広大な市町で、大高坂山周辺を、土佐の中心にしょうとしたことは明らか。
その後しゅっと、この土地の治水の難しさから、本拠を浦戸城に遷し、それ以降山内氏が入城してくるまで、大高坂山は本拠として使われることはなかった、というがが通説。
しかし、その開発した市町の規模や周辺の情勢、それに、浦戸城の界隈の土地の狭さなどから、実はそうではなかった、という説もあります。
浦戸に城を築いて、そこの主となったのは、後継ぎの盛親であった、という話です。秀吉の朝鮮出兵に従軍するのに便利な浦戸を、盛親が本拠とした訳ですね。そんな特殊な事情がなければ、海の便がいかによくても、城下町を形成するスペースの無い浦戸を本拠とする理由がない。
と、いう訳で、この大高坂山の城が政権の中心であり続けたのではないか、ということです。なるほど。
するとこの周辺も、長宗我部の頃から城下町の中心であったでしょうか。
それではその前。中世はどうやったか。この土地が歴史館になることになって、発掘調査が行われました。昨年の3月3日には、その発掘の様子をご紹介しちょります。そして、14世紀頃の中世の遺構と思われるものも出てきたのでありました。
南北朝の戦いで、土佐の南朝方の英雄、大高坂松王丸さんの頃には、ここに都市が形成されよったかも知れん、と、そこに書きました。
しかし、今月号の「土佐史談」を読みよって、土佐、南北朝期の南朝方の英雄、大高坂松王丸は、ひょっとしたら架空の人物かも、てなことを書いちゅうがにビックリ。このにっこりひまわりでも何度か参照しちゅう、重要な中世の文書、通称「佐伯文書」が、実は、後世に作られた偽書である、という論証。すごい。それが事実なら、松王丸さんは実在せんかったかも知れない。そんな重要な示唆。これからの検証が待たれます。う〜ん、歴史は難しくも面白い。
それはどうあれ、この山周辺を大高坂氏が支配したことに変わりはなく、中世から戦国期にかけて、街が形成されていったであろう、この場所。
このように、どんどんと変遷していく風景。数年後には、ここに歴史館が建ち、また、新しい風景が生まれ、そして変化していきます。