土讃線考〔3614〕2013/03/08
2013年3月8日(金)晴れ!
今日は、また、朝5時の汽車に乗って出張。高松行きですき、途中の坂出で乗り換えて本州へと向かう予定。早朝の汽車の中は静か。静か極まりない。
2両編成ですが、現在のところ乗客総数は、ひまわり太郎を入れて3名。それに運転手さんに車掌さんで、合計5名が、土讃線を走りよります。
土讃線の年譜を見てみました。色々と経緯がありますけんど、阿波池田から土佐山田までの、あの山中の工事がどう進んだか。険しい渓谷の中の路線。それはそれは厳しい工事やったことは、想像できます。
昭和5年、土佐山田と角茂谷の間が開通。これは、新改の山中をトンネルばっかしで抜ける難工事。
昭和7年、角茂谷と大杉の間が開通。こないだ、2月3日のにっこりで、大杉駅と土佐北川駅の間の旧線の探検レポートをご紹介しました。土砂崩落の危険の中の難工事。当時は、そんなに長いトンネルを掘ることもできず、川沿いの斜面を切り拓いて線路を敷設。旧線跡をたつくると、そのすごさが体感できます。
昭和9年、大杉と豊永の間が開通。
そして昭和10年、徳島県の三縄と豊永の間が開通。すでに三縄は香川県の多度津とつながっちょったので、これで、土讃線が四国山中を貫通したことになります。こないだ、2月10日のにっこりで、大歩危と土佐岩原の間の旧線跡をたつくっちょりますが、ここはもう、すごい。よう、あんなところに線路をつけろうと考えたねえ、と感心してしまうような難所。先人の努力には、あらためて頭が下がります。
ちなみに、その昭和10年当時は、須崎と土佐山田の間も開通しちょったので、多度津〜須崎の、土讃線全線が開通したということになります。土佐久礼まで延びるのは昭和14年で、そっから西に延伸するのは、戦後を待たんといけませんでした。
ところでその昭和10年、新改信号場というのが開設されちょります。なるほど。現在の新改駅は、とてつもない山中にあります。一番近い民家まで、歩いたらかなりありますきんね。何故、あんなところに駅が、と想いますが、最初は信号場やった訳ですな。スイッチバックの。馬力の弱い蒸気機関車で、あの急坂を登りよった訳で、これも先人の発想と努力に頭が下がります。新改信号場が新改駅になったがは昭和22年。
もう、土讃線に乗ると、頭が下がりっぱなし。風光明媚な土讃線は、地形や自然との戦いの歴史でもあったのでありました。
そうすると、あの、民家もなにもない山中にポツンと存在する坪尻駅も気になります。なるほど。やはり、坪尻も、元々は信号場。坪尻が駅に格上げされたのは昭和25年のこととなっちょります。
と、静かな汽車の中でこのにっこりを書きよりましたら、今、汽車は阿波池田のホームにすべりこみました。乗って来た乗客は1人。これで、乗客は合計4名になりました。
昔、阿波池田駅のホームに祖谷そばのお店がありました。あの、太くてそばの味が濃い、独特の祖谷そば。いっつも、汽車に持ち込んで、食べよった、あの味が懐かしい。