岡豊山が、長宗我部氏を覇者にした要因のひとつである話〔3584〕2013/02/06
2013年2月6日(水)曇りのち晴れ
それにしてもヌクい。どうなっちゅうがやろう、と思うばあヌクい。高知は、もう、梅が満開に近づいてきました。
昨夜、友人が経営する会社の10周年記念パーティーに出席しちょりました。そのスペシャルゲストに、ホスピタルクラウンとしてテレビとかでも有名な、大棟耕介さんが来高。1時間の怒濤のような講演でしたが、笑うことの大切さ、職場で、お客様の前で、一人で、どんな場面でも笑いを演出していくことの大切さを、圧倒的な迫力で教えて下さいました。すごいですね。意識して、笑いをつくり、演出し、テンションを上げていくことの大切さ、素晴らしさが、実によくわかりました。日本中を講演で巡りりゆうらしいですが、機会があれば、ぜひぜひ、聴いて、観てみてください。間違いなく感動しますき。
さて。
今朝、仕事の前に、岡豊山へ行ってきました。高知県立歴史民俗資料館は、館内メンテナンスのため、3月いっぱいまで休館。静かな静かな岡豊山。
もちろん、長宗我部氏の本拠として、戦国期の土佐で重要な役割を果たした岡豊山。標高97m。
いっつも思うがですが、この山を本拠としたことが、長宗我部氏が土佐の覇者になり得た大きな要因のひとつながでしょう。間違いなく。てっぺんに上がって、眺めてみたらわかります。97mというのは、実に、ボッチリの高さ。遠くまで睥睨でき、尚かつ、そんなに険しい高さではない。背後に四国山地を控え、奥が深い。こんな条件を備えちょった山を本拠としたのは、ここ、岡豊山の長宗我部氏と、朝倉山の本山氏だけやと思うがですね。
このてっぺん。詰の段に、望楼が築かれちょったがは、その発掘調査でわかっちょります。たぶん、殿様は、普段は、南斜面の下の方に居住しちょったでしょう。国分川の水運が、かなり長宗我部氏にとっても重要で、浦戸湾水系の水運を制したがも大きかったでしょうな。
一昨年、この頂上に望楼のレプリカが置かれ、国親、元親の気分で、平野を睥睨できるようになっちょりました。併せて、詰の段南側の樹々が伐られました。ですきに、この写真のように、実に見晴らしが良くなりました。おかげで、望楼レプリカが撤去された今でも、国親、元親気分をかなり味わうことができます。
こっから眺めてみると、吉田氏や福留氏など、重要な家臣が岡豊山を守るように居並びます。平時から臨戦態勢にあるような見事な布陣。
1547年、長宗我部国親が、いよいよ土佐国制覇戦に望み、攻撃を仕掛けた大津、天竺城の山は、しゅっとそこ、眼下に見える、という話は、以前にも書きました。何故、いの一番にそこを攻撃したかは、こっからの風景をみたら完全に理解できる、と。
逆に、大津城から岡豊城を眺めるとこんな感じ。暗いのでわかりにくいですが、見下ろされゆう感じで、実に威圧的。天竺右近花氏さん、嫌やったでしょうね〜
詰の段の南の樹木が伐られたおかげで、こんな妄想が、しゅっとできるようになりました。他の、朝倉城址など、山のてっぺんの城址も、ぜひ、樹木を伐って、見晴らせるようにしてもらいたい。そうすると、今までわからんかった歴史が、圧倒的な臨場感で見えてくると思います。これは、私の変わらぬ願いです。