大豊町、怒田の棚田、八畝の棚田、南大王と中村大王と信号場〔3577〕2013/01/30
2013年1月30日(水)晴れ
そういう訳で、今日も大豊。お昼まで、高知で会議がありましたので、それに出席しちょいて、終了後、超特急でやってきました。昼食は車中で齧りもって。
高知県内には、棚田の風景が美しい場所がどっしこあります。ここは、そのひとつ。大豊町怒田(ぬた)。谷の向こう側の集落が八畝(ようね)。その向こうの山に隠れて、梶ヶ森が聳えます。そんな山中。
国道32号線を阿波池田向いて走りよりまして、豊永駅の手前を右折、東豊永方面に進み、途中で橋を渡り、山の斜面に取り付けられた急坂の道路を上っていくと、ここ、怒田に着きます。大豊町の話を書くときに、山中に突然大きな集落が出現してビックリする、という表現をしますが、それは、この界隈をイメージしてのこと。こんな山中の狭い急坂の向こうにヒトが住みゆうろうか、と思いますが、このように、かなり拓けた集落が広がるのであります。それが大豊。
怒田の集会場は、この写真のちょっと南にあります。「怒田学校跡」という碑が立つ、集会所。そこで、昨日に引き続き、この地区の、菜食健美用無農薬野菜の契約量や栽培についての打合せがあったがです。たくさんの農家さんが集まってくれまして、楽しく過ごさせて頂きました。生産者さんたちの笑顔が、ホントに、力になります。年に一度のこの打合せは、万難を排して出席したい集まりです。
さて。怒田の南は南大王で、福寿草の里。大豊町で「大王」というと、「中村大王」を思い出しますよね。その大王とこの南大王とは全然別。場所が違います。中村大王は、大杉の南東くらいになるでしょうか。
それで思い出しますけんど、昔、大王信号場というががありましたよね。大杉駅と北川駅の間のどっかに。列車の行き違いで、停まったりしよりました。調べてみますれば、昭和48年までありました、大王信号場。駅ではないのに停まる、不思議な場所でした。
大杉駅と繁藤駅の間は、途中に土佐北川駅、角茂谷駅がありますが、いずれも、行き違いができるような駅ではありませんでした。単線の線路にプラットホームがくっついちゅうだけの駅。で、そんなに長い距離、行き違いができんとなると、単線の土讃線にとっては具合が悪い。列車ダイヤの組み方がこじゃんと不便になる。と、言う訳で、設けられたがが大王信号場。懐かしいですね〜。覚えちょりますよね。時々、行き違いで停まりよりました。
で、昭和48年(繁藤の土砂崩れの翌年)、運行の安全、防災を期して、大杉トンネルが完成、角茂谷と大杉の間のルートが変更されたのであります。現在の土佐北川駅のしゅっと南から、穴内川の右岸を、大杉トンネルの北出口の鉄橋の北まで。それが、旧のルートやった訳です。で、その途中に大王信号場がありました。記憶では、山中やったような気がしますが、川沿いやったがですね。
と、書いて、なんとなく違和感がある。そんな昔やったっけ。北川駅があんなになったがはもっと最近やった気がする。で、今一度調べ直すと、昭和61年でした。昭和48年にできたがは、大王信号場と大杉の間のトンネル。それができた時の記憶は、ハッキリしちょりますき。できたときは、キレイなトンネルでした。当たり前か。けんど、昭和61年に新ルートができて、その新しいトンネルも、廃されたがでしょうか。
さて、昭和61年、新しいルートができて、距離も短く、安全になったがは良かったがですが、そうなると、大王信号場の目的であった、列車の行き違い機能が失われてしまう。それは、困る。しかも、新しい土佐北川駅をつくらんといかんけんど場所がない。と、いう訳で、穴内川を渡る鉄橋の上に駅をつくり、しかも、その駅は、上りと下りの線路を備えた行き違い可能駅にした訳ですね。なかなか苦労しちょります。
さてさて。
どうやら、その、土佐北川駅と大杉トンネルの北出口の間の旧ルートには、痕跡が残っちゅうようです。トンネルとか、線路とか。これは一度、探検してみんといかんです。