菜食健美と大豊と豊楽寺と柴折薬師さん、なぜ、柴を折ったのか?〔3576〕2013/01/29
2013年1月29日(火)快晴!
今日は快晴。冷え込みました。昨日の夜、広島から汽車でモンて来ました。広島は、昨日はオオゴトやったようです。雪で。小生は新幹線と電車利用やったので関係なかったですが、自動車は、大雪につき大混乱。通常、30分で出勤できるのに、4時間かかった、と、おっしゃっておられました。雪タイヤ履いてない車が、身動き取れんなって、大渋滞になったがにかありません。普段降らんところに降ると、なかなか大変。
ここは今朝の大豊町。大豊町は、雪の降る町。ですきに、ここの皆さんの車は、雪対策は万全。四駆の軽トラは、雪道では無敵です。
この正面の建物が、天坪の集会所。ここで、今から、この地区の、弊社「菜食健美」用野菜生産農家の皆さんとの打合会があるのであります。今日明日で、大豊を4地域に分けて、やります。
昨日のにっこりに、地域が地域として成り立っていくことの大切さを書きました。全体から見たらコンマイことかも知れませんが、現在、大豊町70軒の農家さんが、ひまわり青汁「菜食健美」の野菜を契約栽培してくれよりまして、地域の経済に、ちょっとだけ関わりよります。山間部の、使わんなった棚田跡とか、狭い農地に、ケール、小松菜、青ジソ、サラダ菜、クレソンなど、10種類の野菜を、農薬を使わずに栽培。山深い高冷地ですき、農薬を使わん葉モノ栽培に適しちゅう、大豊。山間部の農業の、ひとつの在り方。農家の皆さんに喜んでもらうのが、一番の楽しみです。
ここは天坪。藩政期以前、雨坪名(あまつぼみょう)の馬瀬村。左手向こうの谷筋が角茂谷。近年、この集会所のしゅっと西にトンネルが抜け、そのトンネルの西が戸手野。全部、雨坪名の小村。雨坪というくらいですき、ホントに、ガイな雨が降るがで有名なエリア。氏神様は、地域の、三体妙見さんやったりしますが、お寺さんは豊楽寺。こないだご紹介した、大田口から山へ入っていったところに鎮座まします、古い由緒の、国宝、豊楽寺。その檀家さんは、この地区まで広がっちゅうそうですき、広いです。
豊楽寺は、お薬師さんと呼ばれ、親しまれてきた、と、以前も書きました。薬師如来をご本尊とする本堂は、国宝。そして、「柴折薬師」とも呼ばれてきたそうです。今日は、そのお話。
豊楽寺さんの例祭は、旧暦の7月6日。昔は、広いエリアからたくさんの老若何女が参詣して、賑やかやったにかありません。その例祭の夜、いわゆる「歌垣」のような、男女の掛合が行われよりました。一夜妻。
その手順は。
まず、男女が相対して、氏神さんや川の名で、自分の住む地域を示唆した後、掛合いの問答を行います。その掛合いは「口上」というたそうで、それには、4つの形式があったそうです。「百人一首」「大和ことば」「ひらことば」「はんごう」。その形式に則って掛合いを行い、返答ができんなった女性は、その男性の意に従う、というもの。
こういう歌垣のような習俗は、全国各地で、それこそ戦争の頃までは盛んに行われよったがはご承知の通り。かの、民俗学の巨人、宮本常一さんの文章でも、対馬とかで、歌垣の話を取材し、歌の上手なおじいさんの話を聞きながら、昔は、歌が上手いと、それはそれは良い思いをしたらしい、という現地の話を伝えております。
土佐でも、夜這いとともに、こんな風習はどっしこあったことでしょう。
娯楽のない、そして自由な行き来の無い時代、男女の出逢いの少ない時代、この習俗は、かなり合理的に機能したがやないでしょうかね。ズルズルではなく、キチンと手順を踏んでいくあたりに、公共性を感じます。夜這いには夜這いの、その地域なりのルールもあったと聞きます。地域のコミュニティは、そんな中で維持され、ルールを破るものは、コミュニティから外されていった、というよくできた社会。
ここ、大豊など、土佐の山中には、そんな習俗が、ホンのこないだまで、今のご高齢の方が若かった頃まで、残っちょりました。それも、地域が、地域として機能する、ひとつの重要な習俗やったがかも知れません。
で、柴折薬師の話。
何故、柴折薬師と呼ぶようになったかについては諸説あるようですが、その一つ。男女の掛合いの後、和合に至り、その際に、柴を折ってきて敷いたき、という説。なるほど。国宝はなかなか艶っぽい。