松渕川界隈の400年〔3570〕2013/01/23
2013年1月23日(水)晴れ!
ここは今朝、夜明け前の松渕川公園。以前、弊社の本社があった南与力町の北側。この真ん前で、小生は、中学2年生まで過ごしました。この公園は、物心ついた時からずっと、メインの遊び場でした。
公園のまん中で、なにやら工事が始まっちょります。新しい遊具を設置しゆうにかありません。この公園の風景も、随分と変わりました。
何故、松渕川公園と呼ぶかと申しますと、この公園の南側を、松渕川という小さな堀川が流れよったき。浦戸湾からつながる堀川は、堀詰から南に掘られ、その堀は、中島町の馬蹄形の池と、松渕川でつながっちょった訳です。
正保元年(1644年)に、土佐藩が幕府に提出した絵図「正保土佐国城絵図」にも、松渕川がキチンと描かれちょります。
松渕川の南北は、当然、上級武士のお屋敷。この公園の所には、誰が住んじょったがか、調べてみました。
まず、上の正保絵図が描かれた時代。皆山集、寛永5年〜万治2年図では、この公園の場所は田中さん。その西に手島さん。
次に元禄の頃。皆山集で元禄11年(1698年)の絵図を見ると、ここに住みよったのは手島さん。その西には野々村さん。延享3年(1746年)の高知城郭図絵では、野々村さんがこの場所に見え、その西に石川さん。その直後に延享の大火があって、その直後の絵図をみると。石川さんの家がこちらまで広がってきちゅうみたいにも見えます。
う〜ん、不思議なことに、順番に西から東へ移動しゆう感じ。それはともかく、江戸時代の武家屋敷は、結構流動的ですね。天明4年(1784年)の御家中御侍屋敷附では、また野々村さんですき、どうやら、延享直後の図では、野々村さんちが記載漏れながやと思われます。野々村さんちの西は石川さんから馬場さんに変わりました。
その後、享和元年(1801年)の絵図でも、天保元年(1831年)高知之図でも、野々村さんが居なくなってその後に宍戸さんが見えます。その西に馬場さんはまだ住んじょりました。
幕末、明治直前の廓中絵図でも、やはり、宍戸さん。その西が馬場さん。で、明治維新。
と、ここまで読んできた皆さん。そんなこと、どうぢゃきカマンぢゃいか。それでどうした?とお思いでしょう。私もそう思います。まあ、勢いですき、その後、ここがどうなっていったかも書いてしまいましょう。
明治26年の、いつもご紹介する河田小龍さん作の高知市街地図を見ると、ここにはシバイゴヤと書かれちょります。そう。ここには、高知座という芝居小屋ができちょったのです。当時の娯楽の殿堂、芝居小屋。近くでは、堀詰に、堀詰劇場も見えます。
高知の市街図をずうっと見て来ると、戦争前まで、ここに高知座の文字が見えます。戦争前まで、ここは芝居小屋、高知座でした。もちろん南を松渕川が流れます。そして終戦。
終戦後、ここは公園になりました。川の南に牛乳工場ができ、そして川の北側が公園。その松渕川、いつの頃に埋め立てられたでしょうか。小生昭和36年生まれですが、記憶にはありません。昭和29年の市街図には、松渕川はハッキリと描かれちょりますき、昭和30年代に入って、埋め立てられたがでしょう。商工会館の南、道路の北に、細長い市営の駐車場が東西に延びます。それが、松渕川の痕跡。あの細長い駐車場の部分を、川が流れよった訳です。
この公園、昔は、小学生で溢れる公園でした。フットベースやら野球やら、追手前小学校オリジナルのボール遊び「かたき」やら。手前の、こんな樹はなかったですき。市内でも、かなり広いスペースが取れる公園でした。今、新しい遊具が設置されゆう場所にはコンクリートでできた小山があり、その山の向こうにブーメラン型ベンチ。山の陰になっちゅうので、アベックがびっしり座りよりました。
今は、子供の安全上、公園に、そんな死角になるような場所をつくらんようにしゆうがですね。
藩政期、居住者は移り変わり、維新後は芝居小屋になり、戦後、公園になって、その公園の風景も変わってきました。
昔、遊んだ頃と変わらないもの。向こうの大きな栴檀の木。右端に見える銀杏の木。