1月11日は御馭初〔3558〕2013/01/11
2013年1月11日(金)晴れ!
今日は高知。良いお天気。シビコオルほどの冷え込みではありませんが、まあ、冷やい。心地良い朝です。
ここは朝4時過ぎの県庁前。県庁前の電車通りとの交差点のちょっと西から、電気ビル方面を撮影してみました。電気ビルという名称は、子供の頃からありますが、ちくと科学的な響きがあって不思議でした。四国電力さんの高知支店のビル。ですきに電気ビル。今、その建て替え工事が行われよります。
昔のビルは、2003年7月19日とか2004年8月20日とか2006年1月5日とかのにっこりひまわりに、ちょっとだけ写っちょります。それが取り壊され、昨年2012年10月23日にご紹介したみたいな風景になっちょりましたが、今はもうこんな感じ。オオカタ、立ち上がってきました。この春完成予定の新電気ビル。
以前にも何度も書きましたが、土佐藩のお正月の重要行事に「御馭初(おのりぞめ)」というものがありました。毎年お正月の11日開催。旧暦ですき、季節としてはもうちょっと後、一番寒い時期でしょうか。
土佐藩の武士たちが馬に乗って枡形に集合。現在のグランド通り電停界隈をスタート地点にして、自分の馬に乗って、今の電車通りを東へと駆け抜ける行事。それを、山内の殿様が閲兵し、日頃の鍛錬の成果を見よった訳です。武士にとって、一年でもかなり重要な行事で、これに向けて、鍛錬をしよったということも言われます。
その、山内の殿様が閲兵した場所は、その、電気ビルのところ。そこに、土佐藩筆頭家老、深尾家の屋敷があり、物見櫓がしつらえられちょりました。その物見櫓に毎年1月11日に殿様がお出ましになり、そこで御馭初を観たという訳です。
藩政期の絵図を見てみましょう。
寛文9年(1669年)の高知城下図では、その場所の住人は深尾因幡さん。深尾家の系図を見てみると、山内一豊さんに仕えた深尾重良さんを土佐の初代として、3代目の御当主。
享和元年(1801年)の絵図を見ると、その場所に住人は深尾左京さん。同じく8代目の御当主。絵図の、お城近くのエリアには、たくさんの深尾家の住宅がありますが、どうやら、この場所に御当主が住むことになっちょったがでしょうか。
幕末、慶応3年の郭中図では、深尾市太郎さん。深尾家の中でも一番多い一万石を拝領しちょりますので、系図ではわからんけんど、やっぱし御当主でしょうか。興味深いのは、その図には、この通りに面してキチンと「御櫓」と書き込まれちょおこと。年に一度の御馭初の為に、ここに櫓が常設されちょったことがわかります。それっぱあ重要な行事やった訳です。
この場所、明治期になって、何が建ったのでしょうか。明治26年の、河田小龍さんの市街地図を見ると、県庁は今の県庁の場所にでき、この写真を撮影しちゅう場所、本町通りの南には東本願寺別院と見えます。市役所は、今の市役所の場所ですが、ずっと小さくて、北東の狭い土地に建っちょります。深尾家関連の屋敷は、もう既になくなりましたが、東隣の五藤家の大きな屋敷は、まだ、存在しちょります。
面白いのは、昭和4年に発行された「高知市街地図」に、「オヤグラ」という文字が見えること。元深尾屋敷の東に、南北をつなぐ路地があり、その路地のことをオヤグラと呼んだにかありません。深尾家の御櫓の名残でしょう。そして深尾家の屋敷の場所、つまり、この電気ビルの場所には何か書いちゃありますが、なかなかぼやけて判読が難しい。と、思うて、別の次図を物色しよったらわかりました。
大正15年発行の市街図に「楠瀬旅館」とあります。オヤグラの東には「高陽館」。鳥瞰図を見ると、ごちゃごちゃと家が並んじょりますので、旅館と民家が密集するエリアであったこともわかってきました。
戦後、電力さんの土地となり、今に至っちゅうということでしょうか。
1月11日。御馭初の日に、御櫓の推移について考えてみました。