去りゆく冬、鏡川〔3541〕2012/12/25
2012年12月25日(火)晴れ!冷やい!
おおの、まっこと冷やい朝でした。サンタさんも、たいちゃ、冷やかったでしょうね。体感は間違いなく氷点下。どれっぱあまで下がったでしょうか。
ここは今朝の鏡川北岸。4時過ぎ。向こうに見えるのは潮江橋。夜明け前、静かな鏡川。12月25日の朝ですき、街には、まだ、昨夜の余韻が残りまくっちゅう若者が散見できます。
4時頃は、まだ、最低気温時間ではありません。こっから冷え込む訳ですが、もう、この時点でかなり冷ようございました。空を見ると、西の空低く冬の大三角形。
そう。午前4時の空からは、もう、冬が去って行こうとしゆうのであります。
写真上部、中央よりちょっと左に、こいぬ座のプロキオンが見えます。そっから真下へ下り、ちょっと左におおいぬ座のシリウス。この写真の中で一番明るい星。そっから右へ視線を写すと、かなり右に傾いたオリオン座。その左肩がベテルギウス。
以前にもご紹介したことがありますが、最近、高知市が、「描かれた高知市」という図録を出版しました。藩政期の国絵図から、城下町の絵図、明治期以降の各種の地図などなど、すばらしい地図資料。よくぞ出版してくれた、という感じの秀逸な図録。
その中に、「慶応初年廓中高知街図」というのがあります。これは、慶応年間、つまり幕末の、城下の侍屋敷配置や、居住状況を復元したもの。ただし、作成されたのは大正4年ですき、地形に関しては、どの時代のものかは定かではないそうです。それを見てみますと。
鏡川には、数本の橋が見えます。石立八幡宮のところに見えますき、新月橋の場所でしょうか。その西は、現在の月ノ瀬橋界隈。だいぶ西へ行って天神橋。これは、藩政期から間違いなく架かっちょった橋。そして、この写真の場所。
その絵図では、この場所の鏡川、河原がこちらからずうっと広がり、川は南岸に沿う狭い箇所を流れます。で、南岸から、その砂州に、短い橋が書かれちょります。
その西、現在の雑喉場橋の場所には、南岸と北岸をつなぐ長い橋が見えます。
さて。
その地図は、いったいいつ頃の様子なのか。気になりますがわかりません。作成された大正4年には、もう、電車が渡る潮江橋が開通しちょりましたので、その当時を反映しちゅうものではない。明治26年に、かの、河田小龍さんが作成した高知市街地図を見ますと、そのエリアの鏡川には、天神橋しか見えず、雑喉場橋のところと新月橋のところに「ワタシ」と書かれて船の絵が描いちゃあります。たしかに、この写真の場所は、北岸の河原が広く、川は南岸沿いの狭いところを流れてはおります。
そんな訳で、もし、河田小龍さんの絵図が当時の状況を正しく伝えちゅうとしたら、「慶応初年廓中高知街図」は、昭和26年以降、潮江橋が掛けられた明治36年以前、ということになります。
ただ、「慶応初年廓中高知街図」は、筆者の記憶や実際の状況も取り入れられちゅう可能性もあり、維新からこっち、川幅が狭かったり、浅かったりした場所には、簡易な仮橋が地元の皆さんによって架けられた可能性も、かなりあります。
どちらにしても、この写真の場所。こちらの北岸から広い河原が広がり、南岸沿いを流れる川幅はかなり狭かったのは間違いないところ。そこに、便利な短い橋を架けろうと考えるがはかなり自然とも見えますね。
去りゆく冬空を眺めながら、そんなことを考えました。